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静かな細い声

 

 

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静かな細い声七十人最高評議員会会員S・デルワース・ヤング、聖徒の道19768月号-332

静かな細い声を聞くために、私たちは義にかなったふさわしい者とならければならない。

私たちは七十人第一定員会に新しく4人の方々をお迎えできたことを喜んでいる。私たちはこの兄弟たちを愛し、その任命を心から支持し、受け入れている。また、共に協力して働けるよう、最善を尽くすつもりである。

列王記上19章には、エリヤの経験について次のよ うに記されている。

「主は言われた、『出て、山の上で主の前に、立ちなさい』。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』d(列王上1911-13)

エリヤは相手が主であることを知ったとき、自分の大きな悩みと、また自分がほら穴の中に隠れている理由とを話した。すると主は、エリヤに何をなすべきかを教えられた。

それから2700年後、私たちに主のみ声を聞く手段が回復された。その手段は、つむじ風や雷、稲妻、あるいはそのほかの壮大な自然現象の中にあるのではない。主の声は、エリヤのときと同様に、「静かな細い声」で来るのである。

私は、主がその選ばれた予言者に語られる方法のすべてについてあげるつもりはないが、その代表的なものとして直接の訪れ、雲間を突いて下されるみ声、また先程述べた方法などをあげることができよ う。 

しかし、主の戒めを守り、日々の事柄に対して直接の導きを求め、また危篤状態にある妻子の助命を願う教会員に対して、多くの場合、主は「静かな細い声」でその願いに答えられることを示された。そのとき私たちはどのように主のみ声を受け、また何を期待すればよいのだろうか。

第一に、主は「みたま」すなわち聖霊によって語られる。1829年、主は十二使徒に御自身が下したもうた 御言葉について次のように語っておられる。

「この言を汝らに語れるはわが声なり。そはわが『みたま』によりて汝らに」与えられる。(i義と聖約1835)

その後、1832年に主は長老たちに、次のように告げられた。「われ、わが『みたま』の声によりてこれを語る。」(教義と聖約751)

主が、義しくふさわしい人々に語られることは確かである。従って、主がいつみたまを通して私たちに語りかけられるかを理解することが、私たちにとって非常に大切なものとなってくる。

第二に、主のみ声は、それを受け入れる人の心の中にもたらされる。例えば、予言者エノスは、主に祈ったときの経験を次のように述べている。

「私がこのように精神こめて祈っている中に、ごらん、また主の御声が私の心に聞えて仰せになったd(エノス10)主が エノスに言われたことをここで取り上げるつもりはない。しかし、主がエノスに語られた模様からその手段のひとつが、ここに明らかにされている。主のみ言葉は心の中にもたらされるのである。

第三に、オリバー・カウドリに与えられた主の教えに耳を傾けてみよう。これはオリバー・カウドリが翻訳を願い出た際に、その願いが聞き届けられると告げられたときのものである。

「然り、見よ、われ今汝に来りて汝の心の中に留るべき聖霊によりて汝の智と情に告げんとすむ(教義と聖約82)ここで言う情とは、感情の意味である。

さて、オリバー・カウドリは、努力をしたが失敗に終わり、次のように告げられた。

「されど見よ、われ汝に告ぐ、汝心の中によく思い計り、その後願うこともし正しからば汝願わざるべからず。願うこと正しからば、その時われ汝の心を内に燃やさん。これによりて汝にその正しきを感ぜしむ。

されどもし願うところ正しからずば、かかる感なくして汝の心は次第に鈍くなり、そはついに悪の悪たるを忘れしむるに至らん。故にわが与うるにあらざれば、聖きことを汝録すを得ず。」(教義と聖約989)

祈りについて、オリバー・カウドリと同じような思い違いをしないようにと申し上げたい。

心を燃やすということは、ひとで言い換えれば、感情が啓示の過程の重要な一要素であるということである。

第四に、ニーファイは自分を殺そうとした兄たちを厳しく叱責し、次のように言っている。

「あなたたちは悪事をするのは早いけれども、あなたたちの神である主を思い起こすのはおそい。あなたたちは、これまでに一人の天使を見、天使はまたあなたたちに言葉をかけた。まことにあなたたちはその御声を時々聞いている。その時それは静かな細い声で話したもうたが、あなたたちはなんらの感じもなかったのでその御声を感ずることができなかった。それでそれは雷のような声であなたたちに語りたまい、その声はあたかも引き裂かんばかりに大地をゆり動かした。」(1ニーファイ1745)

繰り返し申し上げる。それは静かな細い声で話したもうたが、あなたたちはなんらの感じもなかったのでその御声を感ずることができなかった のにニーファイはなぜ、「あなたたちは全く耳を傾けなかったのでその御声を感じることができなかった」と言わなかったのだろうか。それはすなわち、確信は感情を通してもたらされるからである。

主から啓示を受けるためには、主の戒めを守ることにより、主のみこころを知る者となる必要がある。そうするときに、主の知恵により必要に応じて主のみ言葉が思いを通じて心 の中に入り、胸の内に何かを感じるに違いない。それは表現しがたい感情であるが強いて言えば、「燃える」.という感じである。またこれに伴い、安らぎと、そのことが正しいというより確かな証を得ることができるのである。ひとたびこの燃える思い、の気持、この安らぎを覚えた者は、日々の生活において、あるいは導きを受けたときに、決して迷うことはないであろう。この啓示がすでに明らかにされている原則と一致するならば、それが正しいことがわかり、また一致しなければ、それが主からのものでないことを知るのである。なぜなら、主にあっては何ひとつ矛盾することはないからである。生ける予言者に与えられる 御言葉に相反する啓示を受ける人はひとりとしていない。すべての人はこのことをよく理解しなければならない。この原則を応用することによって、日常生活で経験する多くの欲求不満を防ぐことができるであろう。

この会場にいるほとんどの方々は、こうした経験を数多くしてこられたことと思う。しかし、大勢の子供たちはいまだこのことを経験していない。従ってこれを理解させる必要がある。

では、いつこの原則を教えればよい,のだろうか。それにはまず、この原則を適用する必要のある状況に対して、常に敏感でなくてはならない。あるとき、遊び友だちに腹を立てた小さな子供が、あの子とはもう絶対に遊ばない。家にも絶対に入れてあげないから、と言いながら家に帰って来た。そのとき、賢明な母親は仕事の手を休め、すかさずその子にこう言った。「お母さんと一緒にお部屋に行って、ひざまずいて天のお父さまにお話する必要がありそりね。」そこで母親は息子に、どのようにすれば人を赦せるかを説明し、そのことについて祈るようにと言った。母親は まず自分が祈り、次に息子に祈らせた。祈り終わって寝室を出るときに、息子 は母親を見上げてこう言った。

「僕、あの子とまた遊ぶよ。家に連れて来るね。」

皆さんは、これを祈りの答えであると言うかも知れない。まさにその通りである。しかしこれはまた、この少年が主のみ声を聞いた初めての、しかも非常に大切な体験である。

若者が成長するにつれて、何をなすべきか、またどのように振る舞うべきかを知るために、みたまを求める必要のある場合が数多くある。では、すべての両親は、 いったい、どのように子供たちにそれを教えればよいだろうか。家庭の夕べはどうであろうか、確かに良い機会である。しかし、それよりもはるかに大切な時がある。それは、彼らがみたまを必要 としている時、まざにその時に教えることである。そうすれば子供たちは正しい生活をしていれば主の声が自らの心に訪れることを理解するであろう。胸の内にある種の感じと共に安らぎがもたらされるからである。こうして子供たちは、主のみ言葉をその身に受けるようになるのである。

予言者ジョセフ・スミスはこの方法により啓示を受けた。ジョセフ・スミスに続く他の大管長についても同様である。そして現在、教会員はこの方法により、スペンサー・W・キンボール大管長を通じて主のみ旨を知ることができる。私たちはこの方法により、最終的に永遠の生命に至る道を見出すことができることだろう。私はそれが真実であることを、またスペンサー・W・キンボール大管長が予言者であることを心から証する。イエス・キリストの 御名により申し上げる。アーメン。

The Still Small Voice, S. Dilworth Young, April 1976 General Conference

We welcome the four new members of the First Quorum of the Seventy and assure them of our love, our complete sustaining and acceptance of their appointments, and shall do our best to be cooperative with them in their work.

I read you an experience of Elijah which I find in 1 Kings, the nineteenth chapter.

“And he said, Go forth, and stand upon the mount before the Lord. And, behold, the Lord passed by, and a great and strong wind rent the mountains, and brake in pieces the rocks before the Lord; but the Lord was not in the wind: and after the wind an earthquake; but the Lord was not in the earthquake:

“And after the earthquake a fire; but the Lord was not in the fire: and after the fire a still small voice.

“And it was so, when Elijah heard it, that he wrapped his face in his mantle, and went out, and stood in the entering in of the cave. And, behold, there came a voice unto him, and said, What doest thou here, Elijah?” (1 Kgs. 19:11–13.)

When Elijah knew that he was in communication with the Lord, he told him of his great trouble and why he was hiding in the cave. He then received instruction as to just what to do.

Twenty-seven hundred years later we have had restored to us the means by which we can hear the voice of the Lord. As Elijah discovered, it will not be in the whirlwind, or in thunder, or in lightning, or in any spectacular display. It will come, as to Elijah, in a “still small voice.”

I do not pretend to list all of the ways in which the Lord may choose to speak to his chosen prophet. We could name personal appearances, voices out of a cloud, and of course the one just mentioned.

But to the member of the Church intent on keeping the commandments, needing personal guidance in his daily affairs, pleading for the life of his wife or his child who is desperately ill, the Lord has indicated many times that the answer will come by the “still small voice.” How may I, then, know how to receive and what to expect?

First, the Lord will speak by his Spirit, which is the Holy Ghost. In speaking to the Twelve in 1829 the Lord said, referring to the words he had given:

“For it is my voice which speaketh them unto you; for they are given by my Spirit unto you.” (D&C 18:35.)

Later, in 1832, he instructed the elders, “I who speak even by the voice of my Spirit. …” (D&C 75:1.)

It is important that we learn to understand when the Lord speaks to us through his Spirit, for it is certain he will do this to the righteous and deserving.

Secondly, it will come into the mind of the recipient. For example, the prophet Enos was praying to the Lord and described his experience thus:

“And while I was thus struggling in the spirit, behold, the voice of the Lord came into my mind again, saying …” (Enos 1:10.)

What he told Enos is not my immediate concern, but the means used to tell him is here illustrated. The word of the Lord comes into the mind.

Thirdly, let us now listen to the Lord’s instruction to Oliver Cowdery, who wanted to translate and was told he might do it.

“Yea, behold, I will tell you in your mind and in your heart, by the Holy Ghost, which shall come upon you and which shall dwell in your heart.”

And then further to declare its true power, if we should have that happen:

“Now, behold, this is the spirit of revelation; behold, this is the spirit by which Moses brought the children of Israel through the Red Sea on dry ground.” (D&C 8:2–3.)

Here then we have added to what Enos said: mind and heart—not the heart that beats but the heart which means “feeling.”

Oliver Cowdery tried but failed and was told:

“Behold, I say unto you, that you must study it out in your mind; then you must ask me if it be right, and if it is right I will cause that your bosom shall burn within you; therefore, you shall feel that it is right.

“But if it be not right you shall have no such feelings, but you shall have a stupor of thought that shall cause you to forget the thing which is wrong; therefore, you cannot write that which is sacred save it be given you from me.” (D&C 9:8–9.)

And I might say you might not think it, too, in the same manner.

Causing the bosom to burn is another way of saying that feeling is a big part of the process of revelation.

Fourthly, in the terrible rebuke given by Nephi to his brothers concerning their murderous intentions, he said:

“Ye are swift to do iniquity but slow to remember the Lord your God. Ye have seen an angel, and he spake unto you; yea, ye have heard his voice from time to time; and he hath spoken unto you in a still small voice, but ye were past feeling, that ye could not feel his words; wherefore, he has spoken unto you like unto the voice of thunder, which did cause the earth to shake as if it were to divide asunder.” (1 Ne. 17:45.)

I repeat: “He hath spoken unto you in a still small voice, but ye were past feeling, that ye could not feel his words.” (Italics added.) Why did he not say, “Ye are past hearing that ye could not hear his words?” Because the assurance comes through feeling.

If I am to receive revelation from the Lord, I must be in harmony with him by keeping his commandments. Then as needed, according to his wisdom, his word will come into my mind through my thoughts, accompanied by a feeling in the region of my bosom. It is a feeling which cannot be described, but the nearest word we have is “burn” or “burning.” Accompanying this always is a feeling of peace, a further witness that what one heard is right. Once one recognizes this burning, this feeling, this peace, one need never be drawn astray in his daily life or in the guidance he may receive. He may also know that if this revelation is in harmony with the revealed principles, that it is right, and if in disharmony, it is not from the Lord. The Lord does not contradict himself. It is vital to everybody to know that no one will ever receive revelation that is contrary to the word given to the living prophet. The application of this principle will prevent many of the frustrations experienced in daily life.

Most of us here have had this experience many times, but there is a great host of our children who have not and who need to be led to understand.

When do we teach this principle? When we become alert to situations which point the need for its application. On an occasion when a small boy got angry at a playmate, he came into the house stating that he would never play with that boy again and would not ever let him into the house. The mother—a wise woman—stopped what she was doing, not later, but that very moment, and said: “Son, we need to go into the bedroom and kneel down and talk to Heavenly Father.” There she explained that the boy needed to learn how to forgive and told him he should pray about it. She prayed first and then helped him to start. When they came from the bedroom, the boy looked up at the mother and said: “I guess I’ll play with him again. I think he can come here.” You might say, answer to prayer. Yes, but it was also the beginning of that boy’s hearing the voice of the Lord, and that’s important.

There are many times as our youth grow when they will need to seek the Spirit to know how to act or what to do. When do all parents start to teach them? How? Home evenings? Yes, but far more important, when the need is on them, at the moment they need it. Then they understand that, if righteous, the voice of the Lord comes into their minds with a certain feeling in the breast, accompanied by a peace. They are receiving the word of the Lord to them.

By this means the Prophet Joseph Smith received revelation, as have those who succeeded him as presidents of the Church. And by this means the Church keeps in harmony with the Lord’s will through President Spencer W. Kimball. By this means we may eventually find our way into eternal life, and I pray we may understand. I bear witness of its truth and of the fact that President Spencer W. Kimball is a prophet, in the name of Jesus Christ. Amen.