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「あなたはわたしが考えているような方ですか」中央扶助協会第二副会長シェリー・L・デュー聖徒の道1998年月1107

「わたしは……自分が望んでいるような人間だろうか。さらに大切なことに,わたしは救い主が望んでおられるような女性だろうか。」

「わたしは……自分が望んでいるような人問だろうか。さらに大切なことに,わたしは救い主が望んでおられるような女性だろうか。」

わたしはカンザスの農家の,デュー家の祖母の家の隣iで育ちました。まるで影のように,どこにでも祖母について行きました。銀行,医者,早起き園芸クラブ,それになかなか終わらない教会の集会です。福音のこととなると,祖母は熱心でした。いつでも,だれにでも,初孫のわたしにさえ教会のことを話しました。

わたしは,ある集会からの帰りの車の中で交わした祖母との会話を決して忘れないでしょう。それは8歳だったわたしが,心に突然浮かんだ疑問をぶつけたことから始まりました。「おばあちゃん,福音がほんとうじゃなかったら,今日(きょう)みたいな集会はみんな無駄になるんでしょう。」かわいい8歳でしたでしょう?祖母はこう答えました。「シェリー,心配しなくてもいいのよ。福音が真実だってことはおばあちゃんがよく知ってるから。」

わたしは食い下がりました。「どうして分かるの。」

祖母は間を置いて,ゆっくりとこう言いました。「おばあちゃんが福音が真実だって分かるのはね,イエス・キリストが救い主でこれが主の教会だってことを聖霊が教えてくださったからよ。」そして,しばしの沈黙の後で祖母が口にした言葉は忘れられません。「シェリー,聖霊はあなたにも教えてくださるわ。そのとき,あなたの生活は変わるのよ。」

わたしはその後の出来事を鮮明に覚えています。それまで経験したことのない思いが体を突き抜け,わたしは泣いてしまったのです。わたしには理由は分かりませんでしたが,祖母にははっきり分かっていました。祖母の言葉が真実であることを御霊(みたま)(あかし)したのです。

こよいわたしは,この証ができることを喜んでいます。その出来事から現在までの間に,わたしはイエスがキリストであり,救い主,(あがな)い主であられると自分自身で知ることができました。そしてその知識によって,わたしの人生は永遠に変わったのです。古今の預言者はキリストのもとに来るように(モロナイ1030参照)わたしたちに勧めています。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう宣言しました。「〔イエス・キリスト〕はわたしたちの神学と信仰の中心となられる御方です。すべての末日聖徒は,イエスが復活された御方で,生ける神の御子であられることを,はっきりと知る責任があります。」(「善を行うことを恐れるなかれ」『聖徒の道』19837月号,140)

「キリストのもとに来なさい」との勧告は末日聖徒イエス・キリスト教会のすべての軸であり,扶助協会もそれを中心に回転しています。もっともな理由があります。「来る」という動詞はわたしたちの側の行動を意味しています。来世に関する『新約聖書』の有名な一節で,多くの人々が自分の善い行いを挙げて主に訴えるというくだりがあります。それに対して主は,「あなたがたを全く知らない」(マタイ723)とお答えになります。しかし,ジョセフ・スミスの霊感による翻訳では,意味が明確に表現されています。「〔あなたがたは〕わたしを全く知らなかった。」(ジョセフ・スミス訳マタイ733,下線付加)救い主に近づく責任のすべてがわたしたちの肩に置かれているのです。イエス御自身はこう約束されました。「わたしに近づきなさい。そうすれば,わたしはあなたがたに近づこう。熱心にわたしを求めなさい。そうすれば,あなたがたはわたしを見いだすであろう。求めなさい。そうすれば,与えられるであろう。たたきなさい。そうすれば,開かれるであろう。」(教義と聖約8863)

主の招きを放棄できる人はいません、し,主の招きに例外はありません。主に近づくかどうかはわたしたちにかかっています。主に近づき,主を求め,尋ね,扉をたたくのはわたしたちの責任です。主を知れば知るほど,つまり主の(あわ)れみや献身,またわたしたちが自分で自分をふさわしくないと思うときでも喜んで導いてくださる姿を知るほど,主がわたしたちの願いにこたえてくださることに確信が持てるようになるのです。

主との関係が密接になると,主はわたしたちを裏切ることも,わたしたちから退くことも,主のもとに来るための基準を変えることもなさらない御方、であることが分かるようになります。主の心はわたしたち,主の兄弟姉妹に常に注がれているのです。

主に近づき,主を求め,尋ね,扉をたたく方法はたくさんあります。例えば,イエス・キリストの御名(みな)により天の御父にささげる祈りが少し気まぐれなものになっていれば,独りになってじっくりと,悔い改めの心をもって意味のある祈りをささげるよう決意を新たにしてください。神殿での礼拝の平安と力をまだ味わっていなければ,事情の許すかぎり頻繁に主の宮での儀式にあずかるように決心しましょう。聖文に浸ることによって御霊(みたま)への感受性が増す経験をまだしていないのであれば,主の御言葉(みことば)を絶えず生活に取り入れることを考えてください。こよいこそそれを始める絶好の時です。

これらはほかの多くの努力も含め,イエス・キリストとの交わりを深めてくれるものです。そして,主についての(あかし)が深まり,成熟したものになれば,わたしたちは今の生活より永遠の生活にもっと心を配るようになります。主が必要とされることを行い,主が求められる生き方をするようになるのです。エズラ・タフト・ベンソン大管長はこう語っています。「キリストに従うということは,生き方を変えることを意味します。」(「神によって生まれる」『聖徒の道』19861月号,5)この言葉は,祖母が語ってくれた言葉と非常によく似ています。「イエス・キリストへの証を持てば,あなたの生活は変わるのよ。」

先だって海岸線が美しいオレゴンのあるワードを訪問しました。聖餐(せいさん)会が終わると,一人の女性が近づいて来てこう尋ねるのです。「あなたはわたしが考えている方ですか。」わたしは少々驚きました。彼女はわたしがだれかを聞きたかったのですが,その問いはわたしの心から離れませんでした。そして,こう自問しました。「わたしは自分が考えているような人間だろうか。自分が望んでいるような人間だろうか。さらに大切なことに,わたしは救い主が望んでおられるような女性だろうか。」

このオレゴンの友人の問いかけと祖母から学んだことにはつながりがあります。イエス・キリストについてどう感じるかと自分自身をどう見るかとの問には直接のつながりがあるからです。明確な目的や自己意識,確信がなければ,救い主にさらに献身するのは不可能だからです。

わたしはノーブーが妊超。このジョセフの町を訪れる度にパーリー通りの端,聖徒が町を出るために(ほろ)馬車で列を作った場所に行きます。そして開拓者の姉妹たちがほんの少しの家財を幌馬車に積み込み,自分たちの家に最後の別れを告げ,信仰だけを頼りに荒れ野に旅立とうとしていたときの心境に思いをはせます。

パーリー通りでわたしはいつも涙を流します。どうしてもこう考えてしまうからです。わたしは幌馬車に荷物を積んだだろうか。すべてを捨ててどこにでも行けるほど現代の預言者とイエス・キリストへのわたしの証は強いだろうか。

恐らくこの会場の中で,信仰のために財産を放棄するように求められる人はいないでしょう。わたしたちが求められているのは,人の哲学と主の教えとの差がこれまでになく大きい時代に生きることなのです。

今は悪魔が女性としての生き方に総攻撃を仕掛けている時代です。悪魔は義にかなった女性の影響力が途方もなく大きく,世代を超えて力を及ぼすことを知っています。確かに知っているのです。そこで悪魔は,結婚や母となることへの興味を失わせ,男女に関するこの世的な見方でわたしたちを混乱させ,生活のペースを乱すことによりほんとうの福音に添った生き方が心を貫く体験を味わえなくしているのです。そして,何としてもわたしたちをキリストから離そうとします。それは,キリストのもとに行かなければ,つまり主に従った生活をしなければ,この試しの世を独力で生活することになり,「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ1128)との救い主の約束を受けることができなくなるからです。

わたしたちは毎日,自分自身のパーリー通りの端に立ちます。回復の種がまかれ養分が与えられた今,主は教会の女性の力を必要としておられます。求めておられるのは今です。人からどう思われようと,正しいことを正しいと言うことです。また,主の声を聞き,サタンの欺きを識別する霊的な成熟さを求めておられます。主は聖約を厳密に守る女性を喜ばれます。神権の力を尊ぶ女性を喜ばれます。そして,「この世のものを捨てて,この世に勝る世のものを求め〔る〕」(教義と聖約2510)女性を喜ばれます。主はわたしたちが全力を尽くして「立って光を放ち……あなたがたの光がもろもろの国民のための旗となる」(教義と聖約1155)ことを望んでおられます。

わたしたちは主が望んでおられる女性でしょうか。わたしたちはイエス・キリストについて,生活を変えるような証を得ているでしょうか。

数週問前,わたしはヒンクレー大管長と少しの間話をする機会に恵まれました。わたしは自分の召しに対する質問にこう答えました。「わたしは教会の女性と行動を共にするのが大好きです。みんなとてもいい人ばかりです。」すると大管長はすぐに訂正しました。「シェリー,違います。いい人ではなく偉大な人です。」

わたしは預言者の言葉を信じます。預言者もわたしたちを信じてくれます。わたしたちの強さと粘り,信仰,そして忠実さを信じてくれます。未婚既婚の別,年齢,話す言語は関係ありません。皆さんは天の御父の愛する霊の娘であり,進み行く福音の王国において重要な役割を担うように定められた人なのです。エライザ・R・スノーはこう宣言しています。「聖なる女性になることはわたしたち一人一人の義盗です。……孤独で,また影響力が小さいために地上に神の王国を確立する業に貢献できない女性はいないのです。」(Women’s Exponent『ウーマンズ・エクスポーネント』1873915日付,62,下線付加)

また祖母のことですが,彼女はぶどう畑の片隅で生活しました。健在で彼女を覚えている人はほんのわずかとなりました。

でも,わたしは覚えています。祖母はわたしが11歳のときに亡くなりましたが,わたしはこの一人の忠実な女性に大きく影響されました。同じように,わたしたち一人一人が主の大義には欠かせません。わたしたちが今,救い主であり(あがな)い主である主への献身の思いを新たにしたら,どのようなすばらしいことが起きるでしょうか。若い女性の「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも神の証人になる」(モーサヤ189)との決意を共にするとき,わたしたちはどれほど大きな義の影響を与えることができるでしょうか。

幸いなことに,わたしたちは皆この業に携わっています。姉妹の皆さん,教会でどんな召しにあろうと皆さんは女性のための主の組識である扶助協会の一員です。わたしたちは主が望まれるような女性でしょうか。

これまでよ、りもほんの少し向上できるように努力してみてはいかがでしょうか。そして力を結集して,世界中の女性が神と似た者,高貴な者となれるように導こうではありませんか。

祖母は間違っていませんでした。イエスがキリストであられることを知ればわたしたちの人生は変わるのです。わたしは祖母とともに,救い主が頼りになる力と慰めの源であられることを(あかし)します。主はわたしたちの弱さを助け,傷ついた心を(いや)してくださいます。わたしたちの方で主に近づけば,喜んで引き上げてくださるのです。

わたしはこのことを体験しています。祈りへの答えはいつも簡単に,またすぐに得られるとは限りません。でも答えは必ず得られました。わたしは,主の(あわ)れみと導きの御手(みて)による恵みを何度も受けてきました。イエス・キリストは道を御存じです。主御自身が道だからです。主は約束されました。「わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊(みたま)はあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう」(教義と聖約8488)

モロナイの最後の証はわたしたちの進むべき道を示すものです。「おお,エルサレムよ,目を覚まして地から立ち上がりなさい。おお,シオンの娘よ,美しい衣を着なさい。……まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御心(みこころ)に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。」(モロナイ1031-32)

救い主に従い,救い主が望んでおら、れる女性になるとの決意を確固としたものにすることにより,今,立ち上がろうではありませんか。主が憐れみと力を持った全能と栄光の主であられることを,主が生きておられるとの確信とともに,イエス・キリストの聖なる御名(みな)を通して証します。アーメン。

“Are You the Woman I Think You Are?” Sheri L. Dew October 1997 general conference

Am I … the woman I want to be? More importantly, am I the woman the Savior needs me to be?

I was raised on a farm in Kansas where we lived next door to my Grandma Dew, and I was her shadow. We went everywhere together—to the bank, the doctor, the Early Bird Garden Club, and to an endless procession of Church meetings. When it came to the gospel, Grandma was zealous. She would talk about the Church anytime and with anyone—including her eldest granddaughter.

I’ll never forget an interchange she and I had one night as we drove home from yet another meeting. It began when I blurted out a question that flashed through my eight-year-old mind: “Grandma, what if the gospel isn’t true and we’ve been going to all of these meetings for nothing?” Charming little eight-year-old, wasn’t I? “Sheri, you don’t need to worry about that,” she answered, “because I know that the gospel is true.”

I challenged her: “How can you know for sure?”

Several seconds passed before she said slowly, “I know for sure that the gospel is true because the Holy Ghost has told me that Jesus Christ is our Savior and that this is His Church.” She paused and then she added something I will never forget: “And, Sheri, He’ll tell you too, and when He does, your life can never be the same again.”

I still vividly remember what happened next. A sensation unlike any I had ever experienced charged through my body, and then I began to cry. Though I didn’t understand the reason for my outburst, I’m sure Grandma realized exactly what was happening—that the Spirit was bearing witness to me that what she had said was true.

Tonight I am grateful to testify that during the intervening years I have come to know for myself that Jesus is the Christ, our Savior and our Redeemer. And with that knowledge, my life has been changed forever.

Prophets, ancient and modern, have urged us to come unto Christ (see Moro. 10:30). President Gordon B. Hinckley declared that “[Jesus Christ] is the pivotal figure of our theology and our faith. Every Latter-day Saint has the responsibility to know … with a certainty beyond doubt that Jesus is the resurrected, living Son of the living God” (“‘Fear Not to Do Good,’” Ensign, May 1983, 80).

The admonition to “come unto Christ” is the hub around which everything in The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, and thus the Relief Society, revolves—and for good reason. The verb come implies action on our part. In the familiar New Testament passage about the hereafter in which many plead their case with the Lord by listing all of their good deeds, Christ responds, “I never knew you” (Matt. 7:23). Joseph Smith’s inspired translation of that same passage, however, notes a profound distinction—“[You] never knew me” (JST, Matt. 7:33; emphasis added)—placing responsibility for coming unto the Savior squarely upon our shoulders. Jesus Christ Himself has promised, “Draw near unto me and I will draw near unto you; seek me diligently and ye shall find me; ask, and ye shall receive; knock, and it shall be opened unto you” (D&C 88:63).

There are no disclaimers or exceptions in His invitation. We are the ones who determine whether or not we will come unto Him. The drawing near, seeking, asking, and knocking are up to us. And the more we know about the Lord—meaning the more we experience His mercy, devotion, and willingness to guide us even when we may not feel worthy of His direction—the more confident we become that He will respond to our petitions.

As we increase our interaction with Him, we learn for ourselves that He will never betray us, never turn away, never change His criteria for coming unto Him. His attention is riveted on us, His brothers and sisters.

There are many ways to draw near, seek, ask, and knock. If, for example, your prayers offered to Heavenly Father in the name of Christ have become a little casual, would you recommit yourself to meaningful prayer, offered in unrushed solitude and with a repentant heart? If you have not yet come to appreciate the peace and the power of temple worship, would you partake of the ordinances of the house of the Lord as often as your circumstances allow? If you have not yet found that immersion in the scriptures increases your sensitivity to the Spirit, would you consider incorporating the word of God into your life more consistently? Tonight would be a wonderful time to begin.

These efforts and many others increase our connection with Jesus Christ. As our testimony of Him expands and matures, we begin to care more about life forever than life today, and we have no desire but to do what He needs us to do and to live as He has asked us to live. President Ezra Taft Benson taught that “when you choose to follow Christ, you choose to be changed” (“Born of God,” Ensign, Nov. 1985, 5). It is a lot like what Grandma told me: “When you have a testimony of Jesus Christ, your life can never be the same again.”

Not long ago I visited a ward on the exquisite Oregon coast. At the conclusion of sacrament meeting I was a little surprised when a woman approached me and asked, “Are you the woman I think you are?” Her question referred to my identity, but it is one that has haunted me. Am I the woman I think I am, the woman I want to be? More importantly, am I the woman the Savior needs me to be?

There is a connection between my Oregon friend’s question and the lesson I learned from Grandma. For there is a direct relationship between how we feel about Jesus Christ and how we see ourselves. We cannot increase our devotion to the Savior without also obtaining a greater sense of purpose, identity, and conviction.

love Nauvoo. And every time I visit the City of Joseph, I walk to the end of Parley Street, where the Saints lined their wagons as they prepared to evacuate the city. There I try to imagine how our pioneer sisters must have felt as they loaded what little they could into a wagon, glanced a final time at their homes, and then followed their faith into the wilderness.

I always weep on Parley Street, because I can’t help but wonder, Would I have loaded that wagon? Would my testimony of a modern-day prophet and Jesus Christ have been strong enough that I would have given up everything and gone anywhere?

Perhaps none of us in this congregation will be called upon to suffer deprivation because of what we believe. But we have been called to live in a time when the chasm between the philosophies of men and the teachings of the Master gapes wider than ever.

This is a day when the adversary has launched an all-out attack against womanhood, because he knows—he absolutely knows—that the influence of a righteous woman is enormous and that it spans generations. He would have us be disinterested in marriage and motherhood, confused by the world’s view of men and women, too harried by the pace of life to really live the gospel and to let it penetrate our souls. At all costs, he wants to keep us at arm’s length from Jesus Christ. For if we don’t come unto Christ, meaning that we never turn our lives over to Him, we will go through our probation here on our own rather than experiencing what the Savior promised when He said, “Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest” (Matt. 11:28).

Each day we stand at the end of our own Parley Street. The Lord needed the strength of the women of this Church as the seeds of the Restoration were planted and nourished. And He needs us today. He needs us to speak up for what is right, even when doing so is unpopular. He needs us to develop the spiritual maturity to hear the voice of the Lord and detect the deceptions of the adversary. He delights in women who keep their covenants with precision, women who reverence the power of the priesthood, women who are willing to “lay aside the things of this world, and seek for the things of a better” (D&C 25:10). He needs us to be everything we can be, to “arise and shine forth, that [our] light may be a standard for the nations” (D&C 115:5).

Are we the women the Lord needs us to be? Have we received a testimony of Jesus Christ such that our lives can simply never be the same again?

Just a few weeks ago I had occasion to talk briefly with President Hinckley. In response to a question about my calling, I said, “I love getting out with the women of the Church. They are so good.” At that, he immediately corrected me: “No, Sheri. They aren’t good. They are great!”

I take prophets at their word. And our prophet believes in us. He believes in our spiritual strength and our resilience, in our faith as well as our faithfulness. Regardless of your marital status, your age, or the language you speak, you are a beloved spirit daughter of Heavenly Father who is destined to play a critical part in the onward movement of the gospel kingdom. Eliza R. Snow proclaimed that “it is the duty of each one of us to be a holy woman. … There is no sister so isolated, and her sphere so narrow but what she can do a great deal towards establishing the Kingdom of God upon the earth” (Woman’s Exponent, 15 Sept. 1873, 62; emphasis added).

Remember Grandma? She lived a simple life in an obscure corner of the vineyard. There are only a handful of people still living who even remember her.

But I remember her. Though she died when I was just 11, I was profoundly influenced by this one faithful woman. In like manner, each of us is vital to the Lord’s cause. How much good might we do if at this very hour we rededicated ourselves to Him who is our Redeemer and our Rescuer? How much righteous influence might we have if we joined the Young Women in their pledge to “stand as witnesses of God at all times and in all things, and in all places” (Mosiah 18:9)?

Happily, we are all in this together. Regardless of where you serve in this Church, sisters, you are a member of Relief Society, the Lord’s organization for women. Are we the women the Lord needs us to be?

Might we commit to do just a little better than we have been doing, and in the process marshal our forces to lead the women of the world in all that is Godlike and ennobling?

My grandma was right. When we come to know that Jesus is the Christ, our lives can never be the same again. With Grandma, I bear testimony that the Savior is the one source of strength and comfort that we can count on. He came to succor us in our infirmities and to heal our broken hearts. He is eager to lift us up if we will come unto Him.

I know this from personal experience. Answers to prayer haven’t always come easily or quickly. But they have always come. Time and again, I have been the beneficiary of the Lord’s mercy and guiding hand. Jesus Christ knows the way because He is the way. “For I will go before your face,” He promised. “I will be on your right hand and on your left, and my Spirit shall be in your hearts, and mine angels round about you, to bear you up” (D&C 84:88).

Moroni’s benedictory testimony charts our course: “Awake, and arise from the dust, O Jerusalem; yea, and put on thy beautiful garments, O daughter of Zion. … Yea, come unto Christ, and be perfected in him, and deny yourselves of all ungodliness; and if ye shall deny yourselves of all ungodliness, and love God with all your might, mind and strength, then is his grace sufficient for you, that by his grace ye may be perfect in Christ” (Moro. 10:31–32).

May we this very hour arise by strengthening our resolve to follow our Savior and to be the women that He needs us to be. Of His mercy and strength, of His omnipotence and glory, and with the assurance that He lives, I bear witness in the sacred and holy name of Jesus Christ, amen.

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