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聖徒とともに涙を流す、管理監督第二監督グレン・L・ペイス聖徒の道19894月号、18 (Except for portrait, pictures from David Ikegami)

数年前,「聖徒と共に涙を流すよりは罪人と一緒に笑いたい」という歌詞の流行歌を耳にしたことがあります。最初この歌詞を聞いたときは腹立たしく思ったのですが,翌日もう一度聞いたときは,腹立たしく思えた理由がわかり,自分がおかしくなりました。確かに,一見真実味があるからです。

小学生のころ,日曜日によその子供たちは映画を見に行くのに,私は両親と教会へ行きまし睡灘i羅た。中学生のときは,ほかの人たちが昼ごろまで眠っているのに,私は断食献金を集めて回りました。高校時代は,日曜日にスーパーマーケットで働けば平日の2倍の収入が得られたのに,安息日を聖く守りました。伝道中には,土曜日の夜街頭を同僚と共に歩きました。同年代の若者たちがデートの相手と共に笑いながら私たちを指差し,「あの人たち何なの?」などと言いながらそばを車で通り過ぎていったものです。

結婚して間もないころ,私たちは,幼い子供たちを連れて教会へ行きました。スーパーボール(アメリカン・フットボールのプロリーグの選手権試合)が行なわれる日曜日には,世間の人々が飲み食いし,にぎやかに声援を送っている一方で,私たちは子供たちをなだめすかして,ステーキ部高等評議員の話を聴かせようと一生懸命でした。またあるときは,我が家のポンコツ車が高級車と並んで信号待ちをすることがありました。すると,最新流行の服を着たいわゆる「標準的な」人数の子供を乗せた人たちから,ディスカウントストア(中古品を取り扱う店)で買った古着を着た我が家の6人の子供たちはさげすみの目で見られたものです。

私は去年とても無念な思いをしました。大学生の子供たちに説得されてブリガム・ヤング大学で開かれたコンサートに行ったときのことでした。冒頭で紹介した歌詞のついた歌を発表した歌い手がこう言いました。「私は人を改宗させようとは思いません。ただ別の道もあるということを人々に伝えたいのです。」私はステージに駆け上がってマイクをひったくり,自分の意見をぶつけたい気持ちにかられました。けれども,そんなことをすれば当然子供たちの反感を買うことになるのでじっと我慢していました。

「罪人は笑い,聖徒は涙を流す」というのも,ひとつの人生観といえましょう。しかし,あまりにも単純で,現実にそぐわないと思います。ざせつ罪人の中にも人生に挫折して涙に暮れている人もいれば,私たち末日聖徒にも確かに笑いはあるからです。もちろん,罪人にとっても聖徒にとっても,人生において意義あるものすべてがおもしろいとは限りません。ときには,教会の繍標準に従って生活する努力を何らしていない人の方が,標準を守っている人々よりも生活を楽しんでいるように思えることがないでしょうか。私たち末日聖徒の生活は,戒めや期待,奉仕,犠牲,金銭上の義務などで縛られているように見えます。世の中にはこうしたいわゆる束縛が何もない人々もいます。月曜日の夜に限らずもっと家にいて家族と過ごす人々もいますし,収入以上のお金を使う人々もいます。私たち末日聖徒は教会に納めるべきお金を納めてしまうと,間違ったことをする余裕などはなくなってしまうのです。

自分の気持ちに素直になるなぢば,確かに聖徒たちにとって泣きたくなるようなことはたくさんあります。しかし,得る価値のあるものはそう簡単に得られません。私たちが求める日の光栄の幸福は努力せずには得られないのです。

試練のただ中にあって

私たちは試練のただ中にあるときに,「こんな目に()うような悪いことは何もしては、いないのに」と叫ぶことがあります。苦難というものは,何か悪いことをしているからではなく,逆に正しいことをしているために訪れることがよくあります。昇栄に至るためには,自分を清め,神から聖別されるように努めなくてはなりません。私たちの霊が主のみこころに従順になるように,ある程度の試練や苦難をくぐり抜けなければならないのです。

ジョセフ・スミスの人生は,まさしくこの原則を実証するものと言えましょう。ジョセフ・スミスは1838年から1839年にかけての冬にリバティーの獄に捕らわれていました。外面的な状況から判断する限り,おそらくこの時期ほど彼の人生において暗い時期はなかったでしょう。聖徒たちは迫害や略奪に遭い,殺害され,また,お互いの間にも争いや背教が見られました。

私たちはジョセフ・スミスが受けた苦難を完全には理解できないと思います。獄の寒さについてではなく,ジョセフ・スミスがどれほど落胆していたかということについてです。ジョセフ・スミスは御父と救い主にまみえ,モロナイをはじめバプテスマのヨハネ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネなど多くの天使の訪れを受けました。そのような経験によって,苦しみがいくらか和らげられたのではないかと,皆さんは考えることでしょう。

ところが実際は,そのような経験があったためになおさら苦しみが増したのではないでしょうか。とりもなおさず,ジョセフは神が自分を救い出すこともできるということをなんじいずこよく知っていました。ジョセフが「お>神よ,(なんじ)何所(いずこ)(おわ)したもうや。神の隠家(かくれが)(おお)える大幕何所にありや」(教義と聖約1211)と主に叫んだのは,このような背景があってのことだったのです。

この苦悶(くもん)の叫びに対して主はこのようにお答えになりました。「わが子よ,汝心安かれ。汝の不幸汝の困苦はただこつかれ束の間なり。」(教義と聖約1217)そしてこうつけ加えておられます。「わが子よ。汝心安かれ。汝の不幸汝の困苦はただこれ束の間なり。」(教義と聖約1217)そしてこう付け加えておられます。「わが子よ汝この事を知れ、すなわちこれ皆汝に()からんため,汝に経験を与えんためのものなり,と。」(教義と聖約1227)

「汝に善からんため」』とはどういう意味でしょうか。そのような経験がどうしてためになるのでしょうか。かつて教会幹部の職にあったBH・ロバーツ長老は,1842年にジョセフが同じような経験をしたときどう対処したかを説明し,その点についてひとつの示唆を与えています。

「人生の試練は,それが人の心をかたくなにするものでない限り必ずためになる。試練のさなかにあった日々,予言者はいっそう心やさしく,すべての人に対して思いやり深くなったように思われるし,蜜的に最も高められたのは間違いない。これを読んで,神の霊感により,ジョセフの理解力が一層深まったことを疑問に思う者はいないはずである。」(ジョセフ・スミス「教会歴史」全7巻,528)

主はジョセフに「これ皆汝に善からんため,汝に経験を与えんためのものなり」と言われた後,さらにこう言われました。「『人の子』は一切これらのものの下に身を落したり。汝は彼より大いなるか。」(教義と聖約1228)

救い主がゲツセマネで苦しみを受けられたのは,ひとつには試練や苦難を経験する私たちに対して救い主が限りない思いやりを覚えるようになるためでした。ゲツセマネでの苦悩を通して,救い主は完全な判士たる資格を得られたのです。最後の審判の日に救い主のもとへ行って,「あなたに私の苦しみがおわかりになるはずはありません」と言うことはだれひとりできません。私たちの受ける試練がどういうものか,救い主は私たち以上によくご存じなのです。なぜなら救い主は「一切これらのものの下に身を落」とされたからです。

愛する御子がゲツセマネの園で苦悩しておられる姿を,慈悲深い天父は見ておられました。救い主は叫んでこう言われました。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい。」(マタイ2639)

御子の嘆願を拒絶せざるを得なかったときの御父の目に浮かんだ涙を想像することができるでしょうか。また十字架上の救い主を見捨て,「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか」,(マルコ1534)という御子の叫びを耳にした御父は涙を流されました。そのときの御父の気持ちがどのようなものであったかを理解できるでしょうか。ところが父なる神と御子イエス・キリストが涙を流されているにもかかわらず,罪人たちは笑ったのです。

私たち自身のゲツセマネ

私たちはそれぞれ自分自身のゲツセマネを経験しなければなりません。聖徒にとっても罪人にとっても,おそらくわが子の死ほど大きな苦難はないでしょう。私の知り合いのある父親は,10歳になる娘を事故で失いました。父親はその知らせを聞いてからすぐに,娘へあてた手紙を書きました。その手紙を読むと,この善良な父親が,福音の知識と慰め主からの賜のおかげで,この苦難を通してみずからを聖める経験をしたことがわかります。もし福音の光がなかったら,まったく違った思いを抱いたことでしょう。(本人の許可を得て,その手紙を引用させていただきます)

「もしよかったら,聞いてください。パパとママはうれしかったとき,悲しかったときにこのようなことを考えていたのです。

お前は我が家の光の天使でした。この世を離れるときでさえ,お前はこの別れが一時の別れであって,決して暗い悲しみでないことを教え,私たちの心を清めてくれました。家から遠く離れたこのホテルの部屋で,たった今お前の死を聞いても,パパはお前が本当は家にいると信じています。もう今までのように不自由な体で苦しむこともなくてよかったね。お前は不平ひとつこぽすことなく生きた。本当に立派でした。

ママもパパも7人の子供たちも皆,お前がいてくれたおかげで随分成長しました。お前は生まれてすぐ特別な治療を受けなくてはなりませんでした。そこで私たちはいろいろなことを学びました。不安や未知のものを受け入れることや,心身の問題を抱えた人々をもっとよく愛すること,天父に願い求めることなどです。天父のことは,今は私たちよりもお前の方がもっとよく知っているね。お前は大きくなるにつれて,意志の強さを教えてくれました。ミルクをこぼしたってむしろ当然だったのに,一度もそんなことはしなかったね。丸1年の間,つづり方ではいつもほとんど満点だったし,算数にもねばり強く取り組みました。本だって,ママと一緒に,文句ひとつ言わず毎晩読んでいましたね。そうです,私たちはできる限りのことをしてお前の勉強を助けたいと思ったのです。でも,私たちがお前から教わったことは,本に書いてあるようなことではありません。筆で記すことは到底できないほど神聖なことばかりです。

家族みんなのために祈っています。主はもうしばらく私たちがこの世にとどまることを望んでおられるのです。また,ふさわしい者となってお前と再会し,完全な身体となったお前の姿を見られるように祈っています。ああ,どんなにかお前ともっと一緒にいたかったことか。『パパ大好きよ』と言ってくれたあの声を聞けたらどんなにいいだろうか。またお前を強くこの胸に抱きしめることができたらどんなにうれしいだろうか。そう,きょうは特にね。」

精練の火

あなたが大きな苦難に遭って涙を流しているときに,ほかの人が罪人と一緒に笑っていても,自分がくぐり抜けるべき精練の火をのろってはいけません。試練も神から与えられたものであり,最終的にはあなたが完全になるために役立つのです。私たち末日聖徒もあえて楽しくないことを求めるわけではありませんし,苦しみや苦労を望んでもいません。けれども,試練や苦難はだれにもあり,それらを通して心を清め,昇栄に向かって成長できることを認識しています。

ここまでは悲しみや苦しみの涙について述べてきました。次に違った種類の涙についてお話しします。この種の涙は聖徒だけのもので,罪人には縁のないものです。

私が長老定員会の会長会の職にあったときです。私たちはいくつかのあまり活発でない家族に働きかけていました。ある夫婦との個別面接で,私はもうそろそろ家族で神殿に行かれてはいかがでしょうかと尋ねました。

とても信じられなかったのですが,はい,という答えが返ってきました。

私たちは泣きました。

その家族は,ステーキ部大会の土曜の夜の集会で自分たちの「改宗」について語りました。愛の込もった話を聞いて,私は涙を流しました。その家族と一緒に神殿へ行くときまでには,涙がかれてしまったと思ったくらいです。彼ら夫婦と美しいお嬢さんたちが聖壇にひざまずいて,今も永遠にわたっても結び固められる姿を目にしたとたん,また涙があふれてきてしまいました。

管理監督会に召されて間もなく,叔父から手紙が来ました。このような文面でした。「親愛なるグレン。先週の日曜日,テレビで君の姿を見ました。ゆ罪人のこの私が総大会を見てどんな成果があったかわかるでしょうか。」

その夏,叔父夫婦は金婚式を祝いました。お祝いが済んでから,私は叔父夫婦を車のところまで送りながらこう言いました。「もしソルトレーク神殿で私に会いたかったら,喜んでおふたりの結び固めをさせてもらいますよ。」

それから1年が過ぎました。ある夜遅く帰宅すると,こんな伝言が置いてありました。「電話をください。何時になっても構いませんから。叔父より。」

電話をかけると叔父はこう言いました。「グレン,金婚式のときに君が申し出てくれたソルトレーク神殿での結び固めの話なのだが,受けようと思ってね。」

「本気なんですか?それでいつ?

12月にお願いするよ。それまでには私もふさわしくなれると監督は考えているみたいだね。」

私はまず叔父夫婦を結び固め,それからふたりの息子を叔父夫婦と結び固めました。結婚して51年たって,ようやく叔父夫婦は神殿のすばらしい祝福にあずかったのです。家族みんなが涙を流していました。

大管長の涙

エズラ・タフト・ベンソン大管長は,しばらく健康を損ねておられましたが,ある日月例の神殿での集会で再び教会幹部の前に立たれました。ベンソン大管長と一緒に集ったのは,2カ月ぶりのことでした。大管長は私たちに愛を伝えてからこう言われました。「兄弟の皆さん,こうしてまた皆さんと同席できて大変うれしく思います。」そして涙を流されました。

救い主はニ一ファイの民への訪問を終えようとするに当たって,民の愛と信仰に深く心を打たれました。救い主はご自分がもう行かなければならないと告げたばかりでしたが,群衆をご覧になると,「群集は涙を流してイエスに今しばらく自分らと共に居りたまえと言わんばかりにイエスをじっと眺めていた。

そこでイエスはかれらに向ってまた『見よ,わが胸は汝あふらに対する憐みにて盗るるばかりなり』」と言われました。(IIIニ一ファイ175-6)

そしてイエスは病める者を癒され,病を癒された者は「イエスの足もとに伏してイエスを拝んだ。そして……涙でイエスの足をぬらした。

それからイエスは,人々にその小さい子たちを連れて来よと仰せになった。

そこで人々はその小さい子たちを連れて来てイエスをとりまいて地上にすわらせた。……

ここに(おい)てイエスは『汝らはその信仰の(ゆえ)にさいわいなり。見よ,今わが喜びは満ち溢れたり』とかれらに言って,涙を流したもうた。……イエスはそれからかれらの小さい子供たちを一人一人近よせてこれに祝福を与え,かれらのために御父に祈りたもうた。

そしてこれをしてしまうとまた涙を流したもうた。」(IIIニ一ファイ1710-1220-22)

ブルース・R・マッコンキー長老は,亡くなられる数週間前の総大会で,この涙について述べています。それは,今までに聞いたことのない力強い証でした。みずからの死への旅立ちが近いことをよく知っていたこの特別な証し人は次のように語っています。「イエス・キリストに関して,イエスが生ける神の御子であり,この世の罪のために十字架におかかりになったお方であることを証します。イエスは私たちの主であり,神であり,王であられます。これは人から教えられたのではなく,私自身が自分の体験を通して得た知識です。

私は主の証し人のひとりであり,いつの日か主の手と足の釘跡に触れ,主の足を涙でぬらすことでしょう。」(『ゲツセマネの清めの力』「聖徒の道」19857月号,p.11)

このすばらしい説教をその場で聞くことのできた私たちは,マッコンキー長老が説教壇に立ってそのような涙を流されたと証することができます。あの涙は決して悲しみの涙ではなく,大きな祝福が待ち受けていることを感じた喜びの涙だったのです。

マッコンキー長老がお話をされるちょうど前日に,私は管理監督会への召しを受けました。マッコンキー長老がお話しになった翌日,復活祭の日曜日の朝5時に,その日の午後に話す説教の原稿を書いていました。マッコンキー長老の力強い説教を思うと,自分の弱さや無力さを痛感して気が滅入りそうでした。けれども,今までの自分の人生で起きたことをいろいろと思い巡らしているうちに,自己不信は消え,心の平安が戻ってきました。そして,自信と永遠の喜びがわきあがり,涙があふれてきました。

そのとき話した事柄の中から,もう一度お話しするのがよいと思われる箇所を書き留めてみました。「私は主イエス・キリストを愛しています。また,主の蹟いにより私の心が変えられていくことを快く思っています。……以前,私は闇の中にいました。しかし今は光を見ています。また,一度は確信を失いました。しかし今は,主は何でもおできになることを知っています。そして,以前は恥入っていましたが,今は『肉体が燃えんばかりに,〔主の〕愛』(IIニ一ファイ421)に満たされ,『その慈愛の御腕に抱かれ』(IIニ一ファイ115)ています。」(『主を信頼する』「聖徒の道」19857月号,p.80)

私は今もあの復活祭の日曜日と同じ気持ちです。主の愛を知った喜びの涙がほおをつたいます。

聖徒と共に涙を流すよりも罪人と一緒に笑った方がよい……私は決してそうは思いません。福音の喜びを味わった人は,もうつまらない世界に戻ることはありません。どんなに努力しても,どこへ旅しても,この世が与える喜びには,どこか空しさが残ります。この空しさは,みずからを永遠の真理に調和させ,神の定められた律法に従って生活する以外に埋めることはできません。

理解力が深まるにつれて,私たちは悟ります。悲しみの涙も実はこの上なく美しい涙であり得ること,そして,最後には永遠の喜びの涙に変わることを。

世の人々は真の喜びを知りません。私は福音が回復されたことに感謝しています。福音は真の喜びとは何か、どうしたらその喜びが得られるかを教えています。生徒とともに涙を流すことの尊さ人一人が悟るように祈っています。*ブリガム・ヤング大学の講演より。

Crying with the Saints, By Bishop Glenn L. PaceSecond Counselor in the Presiding Bishopric, Ensign, April 1989

Based on a talk given at Brigham Young University, Provo, Utah.

Several years ago I heard a popular song that contained the line “I’d rather laugh with the sinners than cry with the saints.” My immediate reaction to these words was anger. The next day I heard the song again, and I laughed at myself because I had come to understand why the line had made me so angry. It was because it appeared to be true!

When I was in elementary school, my parents made me go to church on Sunday while others went to the movies. In junior high school, I collected fast offerings while others slept till noon. In high school, I didn’t work on Sunday and earn double pay at a grocery store. Instead, I kept the Sabbath day holy. During my mission I walked down the streets on Saturday nights with my companion while others our age drove past us with their dates, laughing, pointing, and asking, “Who are those strange people?”

As a young married couple, my wife and I attended church with our restless children. On Super Bowl Sunday—the biggest championship football day of the year—while the rest of the world ate, drank, and cheered, we tried to encourage our children to listen to the words of a member of the stake high council. At other times, while traveling in our old, worn-out car we would pull up to a stop light alongside a luxurious automobile. The occupants, with their socially acceptable number of children dressed in the most fashionable clothing, would look down on my six children, dressed in their second-hand clothes purchased at a discount store.

I felt most frustrated last year when my college-age children persuaded me to attend a concert at Brigham Young University; when the singer announced the song from which this line is taken, he said, “I’m not trying to convert anyone; I just want to provide you with an alternative.” I wanted to run to the stage, grab the microphone, and give my opinion on the subject. Of course this would have horrified my children so I controlled myself.

The statement “sinners laugh and saints cry” is a simple approach to life—too simple; it ignores reality. Some sinners leave a trail of broken lives and plenty of tears, and we Latter-day Saints definitely have our share of laughter. But for saints as well as sinners, all that is meaningful in life doesn’t have to be funny. However, at a given point in time, don’t many who make no effort to live Church standards appear to be enjoying life more than those who do?

Our lives as Latter-day Saints seem to be controlled by commandments, expectations, service, sacrifice, and financial obligations. In the world we see people with none of these so-called restrictions—people who are home with their families on more than just Monday night and who have 10 to 15 percent more of their gross income to spend. By the time we Latter-day Saints meet our financial obligations in the Church, we can’t afford to do anything wrong!

Let’s be honest with ourselves: The Saints really do cry a lot. But then, nothing worth having comes easily. The celestial happiness we seek does not come without effort.

In the Midst of Trials

Sometimes in the midst of trials we cry out, “What have I done wrong to deserve this?” Often, tribulation comes into our lives not because we are doing something wrong but because of what we are doing right. We are striving for the purification and sanctification that will lead us to exaltation. We all must pass through a certain amount of fire so that our spirits will be changeable in the hands of the Lord.

Joseph Smith’s life exemplifies this principle. There was probably not a darker period in his life, by all outward standards, than the winter of 1838–39 when he was imprisoned in Liberty Jail. The Saints were being persecuted, robbed, and murdered, and there was dissension and apostasy in their ranks.

We may be inclined to underestimate Joseph’s suffering. I don’t speak of the coldness of the jail, but of his discouragement. We may think that his anguish would be relieved by his memory of having seen the Father and the Savior and by his memory of the visits from Moroni, John the Baptist, Peter, James, John, and a host of other heavenly messengers.

In reality, this knowledge may have intensified the pain. After all, Joseph had a perfect knowledge that God could free him. It was in this setting that Joseph cried unto the Lord, “O God, where art thou? And where is the pavilion that covereth thy hiding place?” (D&C 121:1.)

To this agonized plea came the Lord’s answer: “My son, peace be unto thy soul; thine adversity and thine afflictions shall be but a small moment.” (D&C 121:7.) He added, “Know thou, my son, that all these things shall give thee experience, and shall be for thy good.” (D&C 122:7.)

“For thy good?” What possible good could come from that experience? Former General Authority B. H. Roberts gave an insight about the possible good that could come from such an experience when he described Joseph’s reaction to a similar experience in 1842:

“… the trials of life are always beneficial where they do not harden and brutalize men’s souls; and every day under his trials the Prophet seems to have grown more tender-hearted, more universal in his sympathies; his moments of spiritual exaltation are superb. No one can read them and doubt that the inspiration of God was giving this man’s spirit understanding.” (Joseph Smith, History of the Church, 7 volumes, Salt Lake City: Deseret Book Co., 1978, volume 5, page 28.)

After the Lord told Joseph, “These things shall give thee experience, and shall be for thy good,” he said, “The Son of Man hath descended below them all. Art thou greater than he?” (D&C 122:8.)

Part of the reason the Savior suffered in Gethsemane was so that he would have an infinite compassion for us as we experience our trials and tribulations. Through his suffering in Gethsemane, the Savior became qualified to be the perfect judge. Not one of us will be able to approach him on the Judgment Day and say, “You don’t know what it was like.” He knows the nature of our trials better than we do, for he “descended below them all.”

As a loving Father in Heaven viewed his Beloved Son suffering in the Garden of Gethsemane, the Savior cried out, “O my Father, if it be possible, let this cup pass from me: nevertheless not as I will, but as thou wilt.” (Matt. 26:39.)

Can you imagine the tears in the eyes of the Father when he had to deny his Son’s request? Can we comprehend the sacred tears shed by the Father when he had to abandon the Savior on the cross and hear him say, “My God, my God, why hast thou forsaken me?” (Mark 15:34.) And yet, at the same time as God the Father and his Son Jesus Christ wept, the sinners laughed.

Our Own Gethsemanes

Each of us must pass through our own gethsemanes or ultimate trials. There is probably no greater gethsemane for saint or sinner that the death of one of our children. Just minutes after he learned of his ten-year-old daughter’s accidental death, a father I know wrote a letter to her. Note how this good man’s gethsemane became a sanctifying experience because of his knowledge of the gospel and the gift he had received of the Comforter. Contrast his reaction with what it might have been without the light of the gospel (I quote it with his permission):

“If you may be permitted to listen, these are some thoughts your dad would like to express in his and your mom’s hour of joy and sorrow.

“You have been an angel of light in our home. Even in your passing you have sanctified the experience by the sweet sorrow of this temporary parting. As I sit in this hotel room many miles from home and only moments after hearing of your passing, I have confidence that you are really home. It’s pleasing to know that you are not held back by the troublesome physical limitations you accepted and lived with in such an adorable, non-complaining way.

“Mom and I and your seven brothers and sisters are better because you came to our home. Soon after your birth, because you needed special medical care and attention, you helped us to accept fear and the unknown; to better love others with physical, emotional, or mental challenges; and to ask and plead with our Father, who today you know better than we do. As you grew older, we learned determination from you. You had every right to spill your milk but never did. You averaged 97 percent in spelling for an entire year and by strong determination struggled with mathematics. You sat with your mom and read every night without a complaint. Yes, we did our best to help you learn, but what we learned from you cannot be printed in books—cannot be written because it is almost too sacred to describe.

“We pray for all of us whom the Lord expects to stay here on the earth for yet a while. Our prayers are that we will be worthy to be reunited with you and to see you whole and perfect. Oh, how we would have love to have you stay! How we would love to hear you say, as you did, ‘I love you’! How we’d thrill to feel that clinging embrace! Oh, yes, especially today.”

The Purifying Fire

As you shed tears in your gethsemanes while other laugh with the sinners, don’t curse the purifying fire in which you have been placed. Your challenges are divinely appointed and they will ultimately perfect you. Latter-day Saints don’t seek the unpleasant things of life. We don’t look for pain and suffering. However, we recognize that trials and tribulations come to all of us and they can help us to grow towards sanctification and exaltation.

I have spoken of tears of sorrow and pain. I shall now speak of a different type of tears. They are unique to saints and will never be shed by sinners.

When I was in an elders quorum presidency, we worked with several less-active families. In a personal interview with one couple, I asked, “Isn’t it about time you went to the temple with your family?”

I couldn’t believe their answer: they said yes.

We cried.

They were asked to speak about their “conversion” in a Saturday evening session of stake conference, and as they expressed their love, I cried. I thought I had used up all my tears by the time we went to the temple—until I saw them and their beautiful daughters kneel at the altar and be sealed for time and eternity.

Shortly after my call to the Presiding Bishopric, I received a letter from one of my uncles. “Dear Glenn,” it said. “I saw you on television last Sunday. Do you realize what an accomplishment it was to get your old sinner of an uncle to watch general conference?”

That summer he and my aunt celebrated their fiftieth wedding anniversary. After the reception I walked them to their car and said, “If you would like to meet me at the Salt Lake Temple, I would love to perform your sealing.”

A year passed. I arrived home late one night to find a message awaiting me: “Please call your uncle, no matter what time you get home.”

I called, and he said, “Glenn, I’m calling to collect on your golden wedding anniversary offer of a marriage sealing in the Salt Lake Temple.”

I asked, “Are you serious? When?”

He said, “In December. My bishop thinks I can be good enough by then.”

I sealed them to each other and then sealed two of their sons to them. After fifty-one years of marriage, my uncle and aunt received the great blessings of the temple, and the entire family cried.

The President Cried

One day, after President Ezra Taft Benson had been ill for some time, he again stood before the General Authorities of the Church in our monthly temple meeting. It was the first time we had been together with him for two months. He expressed his love to us and said, “Brethren, it is so good to be with you again.” And then the president cried.

At the conclusion of the Savior’s visit to the people of Nephi, he felt their love and faith and was deeply touched. He had just announced that he must leave, but as he looked at the people he “beheld they were in tears, and did look steadfastly upon him as if they would ask him to tarry a little longer with them.

“And he said unto them: Behold, my bowels are filled with compassion towards you.” (3 Ne. 17:6.)

Then he healed the sick, and those who were healed did “bow down at his feet, and did worship him; and … did bathe his feet with their tears.” (3 Ne. 17:10.)

And then Jesus “commanded that their little children should be brought.

“So they brought their little children and set them down upon the ground round about him. …

“And he said unto them: Blessed are ye because of your faith. And now behold, my joy is full.

“And when he had said these words, he wept … and he took their little children, one by one, and blessed them, and prayed unto the Father for them.

“And when he had done this he wept again.” (3 Ne. 17:11–12, 20–22.)

Elder Bruce R. McConkie spoke of tears in general conference just a few weeks before his death. In one of the most powerful testimonies I have ever heard, that special witness who had full and complete knowledge that his passing from this mortal life was near said, “I testify that Jesus Christ is the Son of the Living God and he was crucified for the sins of the world. He is our Lord, our God, and our King. This I know of myself independent of any other person.

“I am one of his witnesses, and in a coming day I shall feel the nail marks in his hands and in his feet and shall wet his feet with my tears.” (General Conference, April 1985.)

Those of us who witnessed the delivery of that magnificent address can testify that those tears were flowing even as Elder McConkie stood at the pulpit. They were not tears of sorrow, but tears of joy at the anticipation of the blessing awaiting him.

Just one day before Elder McConkie’s talk, I had received my call to the Presiding Bishopric. One day after his address, on Easter morning, at 5:00 A.M., I was writing my remarks to be delivered that afternoon. As I reflected on Elder McConkie’s beautiful oration, I was overcome with the knowledge of my weaknesses and inadequacies. However, as I began to comprehend what had taken place in my own life, self-doubt was replaced with peace, confidence, and eternal joy. I wept.

I wrote the words which seem appropriate to repeat at this time: “I love the Lord Jesus Christ. I love the transformation his atonement has wrought in me. … I once was in darkness, and now see light. I once lost all of my confidence, and now know all things are possible in the Lord. I once felt shame and now am ‘filled … with his love, even unto the consuming of my flesh.’ (2 Ne. 4:21.) ‘I am encircled about eternally in the arms of his love.’” (2 Ne. 1:15.) (General Conference, April 1985.)

I feel the same way now as I did on that Easter Sunday. That knowledge brings tears.

Would I rather laugh with the sinners than cry with the Saints? Not for one moment. Once one has felt the joy of the gospel, there is no going back into a frivolous world. Try as we might, travel where we may, there is an emptiness all the laughter the world has to offer cannot fill. That emptiness can be filled only by placing ourselves in tune with eternal truths and living according to the prescribed laws of God.

As our understanding increases, we realize that tears of sorrow can be exquisitely beautiful—and that they ultimately give way to tears of eternal joy.

The world knows little of true joy. I thank God for the restoration of the gospel, which gives us an understanding of what true joy is and how we can obtain it. And I pray that each of us will discover the majesty of crying with the Saints.

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