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貴重なメッセージ

 

「ああ,聖なる贖い主」

 

 

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ああ,聖なる贖い主十二使徒定員会会員ニ一ル・A・マックスウェル、聖徒の道198110-11 

兄弟姉妹の皆さん、私は心から主に感謝しています。また、愛するキンボール大管長と副管長の方々に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。私は十二使徒という召しをいただきましたが,使徒と呼ばれる人々の中で,私ほど未熟で資格に乏しい者はおりません。 

あらゆる面で申し分のない妻に,愛と感謝を伝えたいと思います。寛大で立派な両親や姉妹たちに,また王国のみ業に務め,永遠の伴侶と結婚した子供たちに,私の愛と感謝の気持ちを伝えたいと思います。 

使徒としての召しをお引き受けした以上,私は生涯を捧げてその責任を果たさなければならないと考えています。そこで,つたない言葉ではありますが,私はへりくだって聖なる贖い主を讃美し,証を述べたいと思います。 

主はさまざまな名前で呼ばれます。創り主,独り子,平和の君,助け主,仲保者,神のみ子,救い主,メシヤ,救いの導き手,完成者,王の王。しかしどのような尊称で呼ばれようとも,人類を救い得る唯一の名は,イエス・キリストをおいてほかにありません。(教義と聖約1823参照

主はその属性と,知識と,偉業と,経験において,まさに比類なき御方であります。にもかかわらず,主は私たちを「友」と呼んで下さっています。(ヨハネ1515参照

私たちは無条件で主を信頼し,礼拝し,敬愛することができます。この地上に生を受けた者の内,主以外に完全な御方はいらっしゃいません。(イザヤ469参照

主の知恵と業績は,全人類の能力と実績を総合したよりも,はるかに優れたものです。(アブラハム319参照

主は私たちの善い行ないを喜ばれますが,主に対して私たちがどのような立場に立つのかを考えると,私たちは主の足もとにも及ばないことがわかります。だからこそ,私たちはひざまずいて主を礼拝するのです。 

重い病にかかっているからといって,その苦しみを主に訴えることができるでしょうか。主は人の理解が及ばない方法で,私たちが苦しみや病に遭うずっと以前に,それらをすべて御自身の身に引き受けて下さいました。(アルマ711-12;マタイ817参照)私たちの犯す罪の重さの故に,主はすべてのものの下に身を落されました。(教義と聖約1228参照)主が経験されたような深き底に,私たちは落ちたことはありませんし,これからもそのような経験をすることはないでしよう。この贖罪によって,私たちを救う主の力は完全なものとなったのです。この試しの世にあって主から教えを授かる私たちは,主の贖いに心から感謝を捧げます。カルバリの丘には,アブラハムとイサクの友であるイエスの命を救う雄羊はいなかったのです。 

自分の家がないからといって,家のない生活がどんなものか,主に話そうとする人がいるでしょうか。ある時,イエスは次のように言われたではありませんか。「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある。しかし,人の子には、まくらする所がない。」(マタイ820) 

誤解されたり,裏切られたりしたからといって,そのことを主に訴えようとする人がいるでしょうか。友人がしりごみしたり,「わたしは漁に行くのだ」と言った場合は,どうでしょうか。(ヨハネ213参照

不義について主に教えを説くことができるでしょうか,あるいは司法制度の誤りを,律法を定められた御方のせいにすることができるでしょうか。この御方は威厳をもって,律法の曲解や悪質な裁判に耐えられたのです。 

孤独にさいなまれるからといって,「ひとりでさかぶねを踏まれた」主に,見捨てられた者の気持ちについて何を教えることができるでしょうか。(教義と聖約76107;マタイ2746参照

子供を授からない人々は,主に頼ることはできないのでしょうか。主は子供たちを愛し,「天国はこのような者の国である」(マタイ1914〉と言われたではありませんか。また,「子供たちを一人一人近よせてこれに祝福を与え,かれらのために御父に祈り」,そして涙を流されたではありませんか。(IIIニ一ファイ1721-22 

思いやりや憐れみについて,主に説教しようと思う人がいるでしょうか。主は十字架上で苦しみの絶頂にあった時でさえ,隣の罪人を慰めて,「あなたはきょう,わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ2343)と言われたのです。 

自分の地位を求める強い誘惑があったからといって,妥協したことへの言い訳をすることができるでしょうか。サタンがこの世のすべての国々とその栄華とを見せ,「これらのものを皆あなたにあげましょう」,と言って巧みに誘惑した時,御父への驚くべき忠誠を示されたのは,ほかならぬ主でありました。主は断固としてその誘惑を拒まれたのです。(マタイ48参照

人生の思いもかけない皮肉ななりゆきについて,私たちは主に何を教えることができるでしょうか。主が亡くなられた時,残された,たった1枚の着物さえくじで分けられました。しかし主にとって,この地球は足台だったのです。主は人類が再び渇くことのないように,生ける水を与えて下さいました。それなのに,十字架の上で主に差し出されたのは,酢いぶどう酒でした。(ヨハネ410-19;マタイ2748参照

最後の敵である罪と死から私たちを解き放ってくれた主に,自由について何を教えることができるでしょうか。 

自由を尊重しながらもそれに伴う苦難に不平を言う人が,主の福音によらずして,神との真の和解に至ることができるでしょうか。 

貧しい人々を養うことに携わっているからといって,群衆に食べ物を与えることについて,主に何を教えることができるでしょうか。 

医療に従事しているからといって,病人を(いや)すことについて,主に何を教えることができるでしょうか。 

自分の奉仕がだれにも気づかれず,感謝されなかったからといって,その心の痛みを人類の腰い主に訴えることができるでしょうか。癒された十人のらい病人の内,イエスに感謝を捧げたのはたったひとりでした。イエスはこうお尋ねになりました,「ほかの九人は,どこにいるのか」(ルカ1717) 

人間の寿命を延ばす研究をしているからといって,全人類の復活を可能にされた御方に何を教えることができるでしょうか。 

科学者が真理の糸を幾つか発見したからといって,真理全体を編まれた御方に何を教えることができるでしょうか。 

勇気について,主に何を教えようというのでしょうか。体の5箇所に特別な傷をお持ちの主に戦傷者に贈られる勲章を見せたとて,何になるというのでしょうか。 

新しき世界を創造し,その他の世界を過ぎゆかせられるのも,主がお持ちの「力の一言葉」によるのではないでしょうか。(モーセ135-38参照)そのように大宇宙を統治する御方であるにもかかわらず,主は十二使徒の一人一人と親しくお話しになり(IIIニ一ファイ281参照),後にはニューヨーク州の片田舎に住む農家の一少年を召されたのです。 

主は私たちに,主がお造りになった天の星を観察して,「みいつ堂々と進む神を」見るように勧めておられるではありませんか。(教義と聖約8847参照)天体がそれぞれの軌道を運行するように,教会から離れた人々がやがて真理の道に立ち返るのを見る時,私たちはそこに主の栄光と力とを感じないでしょうか。 

主がお造りになった世界は数多く,コンピューターを操作する人間でもそれを数えることはできません。それにもかかわらず,主は「あなたがたの頭の毛までも,みな数えられている」と教えておられるではありませんか。(マタイ1030;モーセ135-38参照

復活された主は,(とら)われの身のパウロのかたわらに現われて,彼を激励し,ローマでも証をするように召されたではありませんか。(使徒2311-12参照)同じように,義人がつらい経験をしている時,そのかたわらには必ずイエスがおられるのです。 

この良き羊飼いは,栄光に満ちた願いの後に,墓からよみがえり,ノアの時代に不従順に陥った失われた羊たちのもとを訪れられました。(1ペテロ318-20参照)そして,アメリカ大陸にいる他の失われた羊のもとを訪れたではありませんか。(ヨハネ1016IIIニ一ファイ151721参照〉そのほかにも,主の訪れを受けた失われた羊がいるかもしれません。(IIIニ一ファイ161-3参照)私たちは良心的な行ないについて,主に何を教えられると言うのでしょうか。 

何ひとつとして私たちが主に教えることはありません。しかし,私たちは主のみ言葉に耳を傾け,主を愛し,敬い,礼拝することはできます。主の戒めを守り,聖典に親しむことができます。そうです,主を忘れてみこころに背きやすい私たちではありますが,決して主から忘れられることはないのです。私たちは主の「業」であり主の「栄光」です。主は決して私たちを迷わせたりされません。(モーセ139参照

ですから,私は主を讃美し,主のみ業をたたえます。主の栄光を表わすにはあまりにも拙い言葉ではありますが,この時満ちたる時代に特に召された主の証人として,主のみ業が完きものであることを証します。 

主のみ業が祝福ばかりで教えに欠けるなどと言う人は,何と危うい状態にいることでしょうか。十字架ばかりを強調して,復活を説かないのであれば,何と狭い視野で物事を見ていることになるでしょうか。カルバリの悲劇ばかりを語って,パルマイラの回復を伝えなければ,何とも偏った教えになってしまいます。それはちょうど,主を拒んだカペナウムの村ばかりを強調して,福音を受け入れたエノクの市について語らないのと同じことです。あるいは,古代のイスラエルの不信仰や堕落ばかりを説いて,何十年にもわたって義しい生活を送ったバウンテフルの人々を無視することと同じです。 

イエス・キリストは,紅海やシナイ山でのエホバであり,復活した主であり,パルマイラの丘では天父の代弁者を務めた御方です。あの時,パルマイラの丘には,たったひとりの少年がいるだけでした。 

主は生きておられ,恵みに満ちておられます。主はすべての国々にその国民にかなう光を送られ,神の道を彼らに宣べ伝えさせておられます。(アルマ298参照)世の光であられる主が,それぞれの国にどの程度の光を送るか,お決めになるのです。 

間もなくすると,すべての人が主にまみえる時がやってきます。主のみ前であらゆる人がひざをかがめ,「イエス・キリストは主である」と告白することでしょう。(教義と聖約76110-111ピリピ210-11参照)祈るためにひざまずいたことのない者でさえ,急いでそうすることでしょう。不敬な言葉を吐く時を除けば主のみ名を口にしたことのない者もまた,主を拝して告白するでしょう。 

かつてあざけりの中で(王を象徴する)紫の衣をまとわれた主が,間もなく,贖いの血を表わす「赤き装い」をして再臨されるのです。(教義と聖約13348-49参照

その時,すべての人は主の正義と憐れみが完全なものであることを悟るでしょう。(アルマ1215参照)さらに,神が冷淡であられたのではなく,人が神をないがしろにしたのであり,それによっていかに多くの苦しみが生み出されるか知るでしょう。 

そして,人類の真の歴史がおぼろげにではなく,はっきりと映し出されるでしょう。(Iコリント1312参照〉大戦争も小さなたき火のように瞬時に消え去り,人類の歴史上の出来事が「時の壁」に描かれた絵のように次々と現われては消えていくでしょう。しかしその前に,末日の厳しくも栄光ある背景の中に,まず私たちの行ないが映し出されるのです。 

地上には善と悪の激しい対立があるでしょうが,エノクの市の聖徒たちとの麗しい再会も行なわれます。そうです,国々には分裂が起こりますが,主の家々はさらに固く一致して,地上に栄光をもたらすのです。ハルマゲドンは間近に迫っています。しかし,アダム・オンダイ・アーマンも目の前にあるのです。 

その一方で主は私たちに,夏の終わりの陽射しから何を悟るようにと言っておられるでしょうか。主は,試練によって私たちの信仰と忍耐力とを試すと言われなかったでしようか。 

狭き門へと続く細い道を見いだす者はきわめて少ないと主御自身が宣言されたではありませんか。(マタイ713-14参照)また,全地に散らされた聖徒たちが,邪悪と暴動と迫害のうずまく中で,神の力と義によって武装すると言われたではありませんか。主は「ひとつの清き民をわがためにおこさん」と欲しておられるのです。(Iニ一ファイ1412-14;教義と聖約10016参照

主のみ業は,あたかも台風の目のように,静かに進められています。初めに主は,聖徒の只中でこれを統治され,次いで全世界の民を治められます。(教義と聖約136;1332-3参照

人類の歴史は,嵐が近づく時のように次次とその扉を閉ざし,様々な出来事は,嵐に舞い散る木の葉のように過ぎ去っていくでしょう。そして,福音のともし火で暖をとる人々は,身と霊とが震えるのを覚えることでしょう。しかし,この信仰の輪の中にいる私たちは,そのような中にあっても,神の目的が決して挫折しないことを知っています。なぜなら,「主は始めから一切のことを知って居たもうから,そのすべての御業を世の人の中に成就するためにある方法を備えておきたもう」(Iニ一ファイ96)と記されているからです。 

私はへりくだって,主が遣わされるところであれば,どこへでも参ることをお約束します。そして主のみむねのままにみ言葉を語れるように努力します。主の特別な証人として完全にその責任を果たすには,私自身の生活を特別で完全なものにしなければなりません。私はこのことを,身の震える思いで自覚しています。話を終えるにあたり,「聖なる贖い主」と題する讃美歌の歌詞を読みたいと思います。この詞の願いは,私自身の願いでもあります。 

ああ主よ,見すてたもうな……

罪人なる我を受け入れ……

我が叫びを聞きたまえ……

我が悩みに応えたまえ……

苦しむときに我をあわれみ……

危ういときに我が盾となり……

主よ,我を見守りたまえ……

ああ,聖なる贖いの主よ……

我を赦し,忘れたまえ,我が罪を,

主よ,助けたまえ……

ああ,聖なる贖いの主よ 

イエス・キリストの聖なるみ名により申し上げます。アーメン。

 

“O, Divine Redeemer”Neal A. Maxwell, October 1981 General Conference, Of the Quorum of the Twelve Apostles

My brothers and sisters: I publicly express my deep gratitude to the Lord, to our remarkable and beloved President Kimball, and to his counselors for my call to the Twelve—among whom I shall be the least, long after being the last so ordained.

I express deep love and appreciation to my wife, who is splendid in every way; to my goodly and gracious parents and sisters; to my children, who are committed to the kingdom and who have been wise enough to have married committed eternal partners.

I realize that my life, of course, must constitute my real acceptance of the apostolic charge. Even so, this poor tongue now seeks to speak in praise and testimony of our Divine Redeemer.

Whether descriptively designated as Creator, Only Begotten Son, Prince of Peace, Advocate, Mediator, Son of God, Savior, Messiah, Author and Finisher of Salvation, King of Kings—I witness that Jesus Christ is the only name under heaven whereby one can be saved! (See D&C 18:23.)

I testify that He is utterly incomparable in what He is, what He knows, what He has accomplished, and what He has experienced. Yet, movingly, He calls us His friends. (See John 15:15.)

We can trust, worship, and even adore Him without any reservation! As the only Perfect Person to sojourn on this planet, there is none like Him! (See Isa. 46:9.)

In intelligence and performance, He far surpasses the individual and the composite capacities and achievements of all who have lived, live now, and will yet live! (See Abr. 3:19.)

He rejoices in our genuine goodness and achievement, but any assessment of where we stand in relation to Him tells us that we do not stand at all! We kneel!

Can we, even in the depths of disease, tell Him anything at all about suffering? In ways we cannot comprehend, our sicknesses and infirmities were borne by Him even before these were borne by us. (See Alma 7:11–12Matt. 8:17.) The very weight of our combined sins caused Him to descend below all. (See D&C 122:8.) We have never been, nor will we be, in depths such as He has known. Thus His atonement made His empathy and His capacity to succor us perfect, for which we can be everlastingly grateful as He tutors us in our trials. There was no ram in the thicket at Calvary to spare Him, this Friend of Abraham and Isaac.

Can those who yearn for hearth or home instruct Him as to what it is like to be homeless or on the move? Did He not say in a disclosing moment that “the foxes have holes, and the birds of the air have nests; but the Son of man hath not where to lay his head”? (Matt. 8:20.)

Can we really counsel Him about being misrepresented, misunderstood, or betrayed? Or what it is like when even friends falter or “go a fishing”? (See John 21:3.)

Can we educate Him regarding injustice or compare failures of judicial systems with the Giver of the Law, who, in divine dignity, endured its substantive and procedural perversion?

And when we feel so alone, can we presume to teach Him who trod “the wine-press alone” anything at all about feeling forsaken? (D&C 76:107; see also Matt. 27:46.)

Cannot the childless who crave children count on His empathy? For He loved children and said, “Of such is the kingdom of heaven”; and “one by one, [He] blessed them,” and “he wept … and prayed unto the Father for them. And when he had done this he wept again.” (Matt. 19:143 Ne. 17:21–22.)

Do we presume to instruct Him in either compassion or mercy? Even at the apogee of His agony upon the cross, He, nevertheless, consoled a thief beside Him, saying, “To day shalt thou be with me in paradise.” (Luke 23:43.)

Can we excuse our compromises because of the powerful temptations of status seeking? It was He who displayed incredible integrity as the adversary made Him an offer which could not be refused—“all the kingdoms of the world, and the glory of them.” (Matt. 4:8.) But He refused!

Can we teach Him about enduring irony? His remaining possession, a cloak, was gambled for even as He died. (See Matt. 27:35.) Yet the very earth was His footstool! Jesus gave mankind living water so that we shall never thirst again, yet on the cross He was given vinegar! (See John 4:10–19Matt. 27:48.)

Can we lecture Him on liberty, He who sets us free from our last enemies—sin and death?

Can those who revere human freedom yet complain about human suffering ever achieve real reconciliation except through His gospel?

Can those concerned with nourishing the poor advise Him concerning feeding the multitudes?

Can those who are concerned with medicine instruct Him about healing the sick?

Or can we inform the Atoner about feeling the sting of ingratitude when one’s service goes unappreciated or unnoticed? Only one leper in ten thanked Jesus, who asked searchingly, “But where are the nine?” (Luke 17:17.)

Should those concerned with lengthening the lifespan offer to enlighten the Resurrector of all mankind?

Can scientists, whose discipline brings the discovery of the interweavings in the tapestry of truth, instruct the Tapestry Maker?

Should we seek to counsel Him in courage? Should we rush forth eagerly to show Him our mortal medals—our scratches and bruises—He who bears His five special wounds?

Does not His “word of power” actually bring entire new worlds into being and cause others to pass away? (See Moses 1:35–38.) Yet in the midst of such galactic governance, He interviewed His Twelve unhurriedly “one by one” (3 Ne. 28:1) and later called a farm boy in rural New York.

Has He not invited us to observe His cosmic craftsmanship in the heavens that we might see “God moving in His majesty and power”? (D&C 88:47.) But do we not also see Him “moving in His majesty and power” as each prodigal finally completes his homeward orbit?

Though His creations are so vast as to be numberless even to computerized man, has Jesus not told us that the very hairs of our head are numbered? (See Matt. 10:30Moses 1:35–38.)

Did not the resurrected Jesus stand by an imprisoned Paul, telling him to be of good cheer and calling him on his mission to Rome? (See Acts 23:11.) Likewise, Jesus stands by the righteous in all their individual ordeals.

Did not this good and true Shepherd forego repose after the glorious but awful Atonement in order to establish His work among the lost sheep, disobedient in the days of Noah? (See 1 Pet. 3:18–20.) Did He not then visit still other lost sheep in the Americas? (SeeJohn 10:163 Ne. 15:17, 21.) Then still other lost sheep? (See 3 Ne. 16:1–3.) What can we tell Him about conscientiousness?

Indeed, we cannot teach Him anything! But we can listen to Him. We can love Him, we can honor Him, we can worship Him! We can keep His commandments, and we can feast upon His scriptures! Yes, we who are so forgetful and even rebellious are never forgotten by Him! We are His “work” and His “glory,” and He is never distracted! (See Moses 1:39.)

Therefore, in addition to my boundless admiration of His achievements and my adoration of Jesus for what He is—knowing that my superlatives are too shallow to do more than echo his excellence—as one of His Special Witnesses in the fulness of times, I attest to the fulness of His ministry!

How dare some treat His ministry as if it were all beatitudes and no declaratives! How myopic it is to view His ministry as all crucifixion and no resurrection! How provincial to perceive it as all Calvary and no Palmyra! All rejection at a village called Capernaum and no acceptance in the City of Enoch! All relapse and regression in ancient Israel and no Bountiful with its ensuing decades of righteousness!

Jesus Christ is the Jehovah of the Red Sea and of Sinai, the Resurrected Lord, the Spokesman for the Father in the theophany at Palmyra—a Palmyra pageant with a precious audience of one!

He lives today, mercifully granting unto all nations as much light as they can bear and messengers of their own to teach them. (SeeAlma 29:8.) And who better than the Light of the World can decide the degree of divine disclosure—whether it is to be flashlights or floodlights?

Soon, however, all flesh shall see Him together. All knees shall bow in His presence, and all tongues confess His name. (See D&C 76:110–11Philip. 2:10–11.) Knees which never before have assumed that posture for that purpose will do so then—and promptly. Tongues which have never before spoken His name except in gross profanity will do so then—and worshipfully.

Soon, He who was once mockingly dressed in purple will come again, attired in red apparel, reminding us whose blood redeemed us. (See D&C 133:48–49.)

All will then acknowledge the completeness of His justice and His mercy (see Alma 12:15) and will see how human indifference to God—not God’s indifference to humanity—accounts for so much suffering.

Then we will see the true story of mankind—and not through glass darkly. (See 1 Cor. 13:12.) The great military battles will appear as mere bonfires which blazed briefly, and the mortal accounts of the human experience will be but graffiti on the walls of time.

Before that reckoning moment, however, both your ministry and mine will unfold in the grim but also glorious circumstances of the last days.

Yes, there will be wrenching polarization on this planet, but also the remarkable reunion with our colleagues in Christ from the City of Enoch. Yes, nation after nation will become a house divided, but more and more unifying Houses of the Lord will grace this planet. Yes, Armageddon lies ahead. But so does Adam-ondi-Ahman!

Meanwhile, did not Jesus tell us what to expect by way of heat in the final summer? Did He not also say that He would prove our faith and patience by trial?

Did He not provide needed proportion when He spoke of the comparative few who will find the narrow way leading to the strait gate? (See Matt. 7:13–14.) Did He not also say that His Saints, scattered upon all the face of the earth, would, in the midst of wickedness, commotion, and persecution, be “armed with righteousness and with the power of God,” for He is determined to have “a pure people”? (1 Ne. 14:12–14D&C 100:16.)

His work proceeds forward almost as if in the comparative calmness of the eye of a storm. First, He reigns in the midst of His saints; soon, in all the world! (See D&C 1:36D&C 133:2–3.)

So as the shutters of human history begin to close as if before a gathering storm, and as events scurry across the human scene like so many leaves before a wild wind—those who stand before the warm glow of the gospel fire can be permitted a shiver of the soul. Yet in our circle of certitude, we know, even in the midst of all these things, that there will be no final frustration of God’s purposes. God has known “all things from the beginning; wherefore he prepareth a way to accomplish all his works among the children of men.” (1 Ne. 9:6.)

Humbly, therefore, I promise to go whithersoever I am sent, striving to speak the words He would have me say and acknowledging in the tremblings of my soul that I cannot fully be His Special Witness unless my life is fully special. I close with pleadings from the hymn “O, Divine Redeemer!” which pleadings are my pleadings:

Ah! turn me not away,

Receive me, tho’ unworthy, …

Hear Thou my cry, …

Behold, Lord, my distress! …

Thy pity show in my deep anguish! …

Shield me in danger,

O regard me! …

O, divine Redeemer! …

Grant me pardon, and remember not, remember not, O Lord, my sins! …

Help me, my Savior!

In the holy name of Jesus Christ, amen.

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