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「この世に輝いている」

十二使徒定員会会員ニ一ル・A・マックスウェル, 聖徒の道19837月号14

存在に対する絶望感,希望を失った者の虚無感,こうした深遠な意味を持つ概念が,文学や映画,音楽の中で頻繁に表現されるようになってから久しくなります。もちろん,幸せに人生を営んでいる多くの人々は,こうした感情には無縁のことでしょう。しかし,大量虐殺や戦争は,20世紀の人々の希望を無残にも打ち砕いてきました。ある著名な科学者はこう述べています。

「現代生活の中で最も胸を刺す問題は,人生は意味のないものだと思う人が出てきたことであろう。……今やそうした見方は哲学や文学の領域を越えて社会や経済の分野にまで広まり,人生のあらゆる面に影響を及ぼしている。」(Rene DubosSo Human an AnimalNew YorkScribners1968p.14f)

「問違った結論に陥って絶望する前に,一歩踏みとどまって真剣に考えたのだろうか」と疑問に思うことなど,もはや不要です。実のところ,そうした人々に同情心を覚え,心から手を差し伸べたいと思うばかりです。

最近のあるテレビドラマの中で,この混迷と無目的性が見事に描かれていました。終わりの墓地の場面で,ひとりが心の痛みをこう表現します。

「人生というものは,悲鳴や愚かな行ない,苦痛,そして死によって中断される,破壊と混乱と苦しみに満ちた夢のないものなのだろうか。分からない。……だれにも分からない。……人はなぜ求めるものを得られないのだろう。満足させるものは皆そろっているのに,間違ったものを選んでしまう。分からない,私には,すべてが闇だ。」("The Good Soldier" a dramatization of the novel by Ford Madox Ford)

しかし心の痛みがあるからといって,その考えが正しいとは言えません。それどころか,こうした誤った誰何(すいか)されない主張が,不当にも真理という衣をまとうことが時々あるのです。信仰を持たない人々はこの絶望感と相対しても何の確信も得られないでしょうが,信仰を持つ人々はそうすることによって,信仰が知らず知らずのうちに腐蝕されていくのを食い止めることができます。

そのうえ古代の予言者がいみじくも述べたように,悲哀と堕落には相乗作用があります。「絶望は悪い行いから来る」(モロナイ1022)からです。

そこで,そうした嘆きや悲しみを神の啓示のそばに置いてみましょう。絶望の言葉を希望に満ちた神のみ言葉の傍らに,死の恐れを復活の約束の傍らに,そして偏狭な考え方を不変のイエス・キリストの福音の傍らに置いてみましょう。そうすれば,一部の人々がいかに近視眼的かが分かるでしょう。木の上の住み家で夢中になって遊んでいる子供と同じなのです。

嘆き世の人はこう言っています。人は「主唱者のない宇宙」に住んでいる。その宇宙は「統率する者のない,人の希望や恐れを意に介さない」所であり,「偶然が支配する国」である。そこで人は「意識を越えた力Jで踏みにじられる。(Bertrand Russell"A Free Man's Worship "in Mysticism and Logic and Other Essays, LondonGeorge Allen and Urwin Ltd.1950p57)

啓示「地をも造り成し,……いたずらにこれを創造されず,これを人のすみかに造られた主」(イザヤ4518)

「主はわれらの神であり,われらはその牧の民,そのみ手の羊である。」(詩篇957)

「見よ,これわが業にしてわが栄光,すなわち人に不死不滅と永遠の生命とをもたらすなり。」(モーセ139)

「人類が現世に在るのは幸福を得んためである。」(IIニ一ファイ225)「またあなたがたの頭の毛までも,みな数えられている。」(マタイ1030)

「されど,この世とこの世に住める人々の話のみを汝にして聞かす。見よ,わが力の言によりて過ぎ行ける多くの世界あり。また今ある世界多くあり。これらは人にとりて数限りなし。されど,よろずのものはわれにとりて数えらる。そはよろずのものはわがものにして,われこれを知ればなり。」(モーセ135)

恐れ  世の考えはこうです。人類は「消滅する運命にある。……人にできることは何もない。」「墓を越えた生活などは存在せず,神もいない。運命は怒りも哀れみも知らないのだ……。」(James Thomson`B.V.'〕,The City of the Dreadful Night and Other Poems, LondonBertram Dobell1899pp.29-3035-36)

約束「イエスは復活ののち,墓から出てきて,聖なる都に入り,多くの人に現われた。」(マタイ2753;IIIニ一ファイ239-11・も参照)

「死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか。」(Iコリント1555)

「おお私たちの神の計画の偉大なことよ。「(IIニ一ファイ9113)

ペテロの言う「認めようとはしない」(IIペテロ35)人は絶望を招くでしょう。ニ一ファイが言った「偉大な知識を教えられてもこれを(わか)ろうとしない」(IIニ一ファイ327)人も同じです。こうした人々の場合,悲観的な思想が「肉欲の心を喜ばす」(アルマ3053)ことになります。なぜでしょう。それは,絶望感の中には無秩序な行為が花を咲かせるからです。人間の欲望を唯一確かな存在だと誤って解釈し,大切なのは今しかないと考えるならば,衝動を抑えたり,欲望の充足を引き延ばしたりする必要はないからです。永遠と責務とは互いにからみ合っているのです。

たしかに,失望という誤った結論に到達したにもかかわらず,正しい行ないを続けている人もいます。そのような慎みのある人の心には,本人は気付かなくともキリストの光が照り続けています。(教義と聖約8446参照)もしそうでなければ,私たちはガンジーの生涯をたやすく軽蔑し,ヒットラーを崇拝するでしょう。

クリスチャンにとってそうした悲観主義の蔓延(まんえん)は,必ずしも「カタコームに再び隠れる」こと,すなわち宗教心のないカイザルたちが間もなくあのユロセウムを再開するということにはつながりません。しかしすでに,えせカイザルが現われています。やがて,カイザルの物だけをカイザルに,神の物すべてを神に納める市民は,カイザルたちの手によってその生計を脅かされるようになるでしょう。(マタイ2221参照)

この絶望感は,物質主義がもたらす空虚さによってさらに強められます。人に徳がない限り,物は人を満足させることはできません。同様に,目的のない知識や知恵の伴わない学問は「常に学んではいるが,いつになっても真理の知識に達することができない」(IIテモテ37)のです。

苦しみにあえぐ人々は,真理を求めてかなたこなたへとさまよい歩きますが,それを見いだすことはできません。(アモス811-121教義と聖約12312参照)詩人ホーソーンはある著名な「漂流者」をこう描いています。「なぜあちらこちらへとさまよい続けるのだろう。……信じることもできなければ,信じない自分に満足することもできないままに。」(Nathaniel Hawthorne20 Nov.1856 in English Notebooks, ed. Randall StewartNew YorkMLApp432-33)

私たちの中にもそうした光景が見られます。多くの人は聖典を拒み,人間が倫理的存在であることを拒み,絶対的真理なるものは決してないと主張します。福音の光を拒んだためにますます深さを増す暗闇におののく人もあれば,神との絆を自ら断ち切ってしまったために,宇宙にひとり残されて嘆く入もいます。またある人は人類の不幸を望んではばからない者の道をたどり,その報いにうめいています。(IIニ一ブァイ227参照)

当然のことながら,真のクリスチャンは人生を安易なものとは考えていません。「冠の前には十字架があり,安息日が一夜明ければまた月曜の朝がやってくる。」(C.S. Lewisthe Weight of Glory, New YorkMacmillan1980)大いなる望みを持てば,わたしたちは不安定なこの世の中でも喜びをもって暮らすことができます。人生とは信仰をもって克服する試しであり,まっすぐで狭い道です。決してエスカレ・一ターではありませんが,そこには確かな道があるのです。

そして死は,人の個性や人格を永遠に奪ってしまうものではありません。ブリガム・ヤング大管長は,腰罪と復活を通して人間の英知と個性が残されたことは「人類に与えられた賜の中で最も大いなるものである」と言っています。(Journal of Discourses553)

翻訳においてそうであったように,予言者ジョセフ・スミスは真理を当時の自分の知識以上に深遠なものにしました。私たちは,現実的で輝かしい希望に満ちた福音の管理人なのです。そして,多くの人々は,私たちには想像できないほどこの福音に飢え渇いています。

私たちは時々,表面的なプログラムにとらわれて,また絶望の海を漂流している人に思いを寄せることを怠って,主の大義を損なう働きをしいる場合があります。

確かに,私たちは「見知らぬ人で一杯の道」を歩し〉ています。たとえ彼らは興味を示さなくとも,私たちは彼らを愛し,彼らを助けなければならないのです。

信仰の目をもって歴史の流れを見れば,この世は目的のない世界ではないことが分かります。私たちの目に映るのは,この人生という舞台に人問が押し寄せる波のように,入れ替わり立ち替わり登場する様です。

そして,たとえこの舞台にいかなる名優が登場しようとも,そこに福音の光がなければ,その名優は自分の出ているわずかな一場面を目にするだけで,一幕を見通すことすらできません。劇全体が見えないのは当然です。私たちは,この劇の作者の意図を理解し,指示に従うように勧められています。しかしこの劇は,作者が登場すると幕になるのです。

さて,私たちは人の過ちを神に帰するべきではありません。聖典にはこう勧告されています。「破るるものは神の業にあらずして人問の業なるを決して忘るべからず。」(教義と聖約33)

確かに人の成功と失敗は,世の初めから主には明らかであり,救いの計画の展開に当たって考慮に入れられました。(Iニ一ファイ96参照)主の目的は完全に果たされるのです。

正義,愛,あわれみ,真理は,正義と愛の教師であられる主の管理の下に宇宙に満ち充ちるでしょう。この現世という学校について,天父と御子は厳かにこう宣言されました。「(しか)して,これによりて彼らを試し,何にてもあれ,主なる彼らの神の命じたまわんすべてのことを彼らが()すや否やを見ん。」(アブラハム325)

主は,個人の進歩にとって自由意志と選択の機会がいかに大切か御存じです。これに代わる方法はないからです。

使徒や予言者たちがこの希望の福音から離れないように述べてきた理由がよく分かります。つまり,「この望みは,わたしたちにとって……錨」(ヘブル619)であり,「この錨のために人はしっかりしてびくともせぬようになり,いつも多くの善い行いを……するように」(イテル124;コロサイ123も参照)なるからです。

献身的な弟子たちに求められているのは,パウロが言うように「この世に輝」(ピリピ215)くことです。ヨエルが見た末日の谷のように輝くのです。「群衆,また群衆は,さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。」(ヨエル314。黙示16116;ゼカリヤ142も参照)

この輝ける人々が「日々自分の十字架を負う」様は,それ自体ひとつの教訓です。(ルカ923参照)彼らは絶望にうちひしがれた静けさではなく,みたまを受けた心安らかな静けさの中で生活しています。これこそがパウロが述べた「福音を弁明し立証する」(ピリピ17)ことなのです。

遠大かつけん騒な人間の歴史の中で,彼らは小さく目立たない存在に過ぎません。しかし彼らの歴史は,この惑星で繰り広げられている絶望のドラマの中で,喜ばしい,約束に満ちた場面を構成しているのです。

第一場:伝道部長の死去に伴い,ある人が突然その後任として召されました。前伝道部長の忠実な妻は夫の遺体と共に帰還し,新任の伝道部長の妻は,手術直後にもかかわらず夫と共に喜んでその召しを受け,遠く離れた任地へ向かいました。ふたりとも主を信じ,心安らかに,不平を言わずに厳しいチャレンジに立ち向かいました。罪だけが本当の悲劇であることを知っていたのです。

第二場:若い伝道部長とその妻と5人の子供が,苛酷な環境の中で生活していました。水を煮沸して車に積み,焼けつくような太陽の下を何時間もかけて散在する宣教師や聖徒たちに会いに行きます。今,家庭には養子になった地元の子供がいて,天国のような雰囲気をがもし出しています。母親ひとりが子供たちの先生です。この家族は,不平も言わずに一生懸命働いています。自分たちがどんなに特殊な状況にあるか頓着していません。そうです。彼らは主からこの約束を受けていることを知っているのです。「一切生くる者わが手の中に在ればなり。汝らつつしみて,わが神なることを知れ。」(教義と聖約10116)

次の場面はドイツです。ある兵士が仲間を口説き落として,車で独身成人の特別大会に行くことになりました。ところがひとりが約束の時問に遅れてしまいました。彼はなけなしの貯金をはたいて遅れた仲間のために航空券を買い,お陰でその友達は大会に出席して素晴らしい祝福を得ることができました。この人は,まさに第2番目の大切な戒めに従い,「他の人には地獄を」という絶望的な言葉をはねつけたのです。

次に登場するのは,若い女子体操選手で,転落して下半身がマヒしてしまった人です。しかし彼女は,それを期に神の聖徒となりました。車椅子で証を述べる彼女は,何と高く立ち,何と多くの人々の心を主に向けさせていることでしょう。確かに彼女は肉体の自由を失いました。しかし主はいつの日かその報いとして,マラキが述べているようにあふれるばかりの祝福を彼女に注いで下さることでしょう。(マラキ310参照)

もうひとつの場面です。伴侶を失った人人が,天に召されて永遠の伴侶と会える日を辛抱強く待っています。しばしの間,自らの義務を果たし,アルマやパウロのような,与えられた環境の中で「足ることを学」(アルマ2936;ピリピ411)ぶのです。

同様に,どんなに不当な扱いを受けても正しいことをあくまで貫き,決して腹を立てたり悪い気持ちを持ったりしない人は賞賛に値します。「神に向かって愚かなこと」(ヨブ122)を言うのはほかの人にまかせましょう。このような忠実な人々は寛大で心が広く,問違ったことをした兄弟たちを赦したあのエジプトのヨセフのようです。「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」(創世455)他の人たちが復讐心を燃やすことでも,聖徒たちは赦すのです。

26歳の若さでこの世を去ろうとしている母親が,幼いふたりの子供を育てられなくなる悲しみに苦悶しながらも,みたまにあふれる柔順さを示して,感銘を与えました。彼女は,自分の命をかけてふたり目の子供をこの世に送り出したばかりでした。子供は無事に生まれましたが,勇気ある母親の体はもたなかったのです。彼女は幼な子のような信仰でこう尋ねて人々の心を打ちました。「もしそうなら,私の死を見守ってくれる夫と両親のために,何をしてあげられるかしら。」確かに彼女は,(そして同じような状況にある人々は)ベンジャミン王の言った「聖徒」という名に値する人です。「幼児がその父に従うように,主が負わせたもうすべてのことに喜んで服従」(モーサヤ319〉するのですから。

そのような人は私たちに,聖徒としてどうあるべきか教えてくれます。福音の光が「大きな幸福を注ぎこみ」,「暗やみの雲」は散らされてしまいました。(アルマ196参照)

「愛のみわざ望みもちて忍び」(讃美歌26),これが,主から与えられたみ業を完成していくのです。

忠実な聖徒たちに風や嵐を送ってみましょう。彼らは世に打ち勝ち,負けることはありません。他の人がよろめいても,決してよろめかないでしょう。他の人はつぶやき,疑いを抱いても,聖徒はそうしないでしょう。だれかが神殿をあざけっても,主の家の業を行なうために静かに神殿に集うでしょう。

神が忠実な兄弟姉妹の皆さんを祝福して「この世に輝いている」(ピリピ215)者とし,あきらめの気持ちを消し去って下さいますように。霊的に文盲(もんもう)なこの世の人々に,福音という文法に基づいて偉大なレッスンを教えるのです。その中のひとつはこうです。「死とは感嘆符ではなく,単なるコンマに過ぎないものである。」

イエス・キリストのみ名により申し上げます。アーメン

 

 “Shine As Lights in the World,” Neal A. Maxwell Of the Quorum of the Twelve Apostles, April 1983 General Conference

For many years now—in literature, film, and music—we have witnessed increasing expressions of a profound sense of what has come to be called existential despair, a hopelessness beyond hope. Granted, the human scene also includes many individuals who go happily about life’s labors untouched by these feelings. But the holocausts and the wars have taken their terrible toll of hope among twentieth-century man. Said one eminent scientist, “The most poignant problem of modern life is probably man’s feeling that life has lost its significance, … [a] view … no longer limited to the philosophical or literary avant garde. It is spreading to all social and economic groups and affects all manifestations of life.” (Rene Dubos, So Human an Animal [New York: Scribners, 1968], pp. 14–15.)

One need not question either the reluctance or the sincerity with which some despairing individuals have come to such wrong conclusions. In fact, one feels compassion and desires to reach out to them in genuine entreaty!

One recent television drama, in its closing scene in a cemetery, conveyed well this confusion and purposelessness, as one character lamented poignantly:

“Are all men’s lives … broken, tumultuous, agonized and unromantic, punctuated by screams, imbecilities, agonies and death? Who knows? … I don’t know. … Why can’t people have what they want? The things were all there to content everybody, yet everybody got the wrong thing. I don’t know. It’s beyond me. It’s all a darkness.” (“The Good Soldier,” a dramatization of the novel by Ford Madox Ford.)

But such poignancy of view is no guarantee of the accuracy of the view. Moreover, in human affairs, erroneous and unchallenged assertions sometimes assume an undeserved aura of truth. While a response to this hopelessness may not create conviction in disbelievers, it can bolster believers against the silent erosion of their own convictions.

Besides, as an ancient prophet correctly observed, sadness and badness are mutually reinforcing, for “despair cometh because of iniquity.” (Moro. 10:22.)

Let us, therefore, place several such lamentations beside the revelations of God. The expressions of despair beside the divine annunciations of hope. The fears of extinction alongside the reassurances of the Resurrection. The provincialism beside the universalism of the gospel of Jesus Christ. Then we shall see how myopic some mortals are, like absorbed children in a tree house pretending they are brave and alone!

The lamentations: Man lives in “an unsponsored universe,” a universe “without a master,” which “cares nothing for [man’s] hopes and fears,” an “empire of chance” in which man falls victim to “the trampling march of unconscious power.” (Bertrand Russell, “A Free Man’s Worship,” in Mysticism and Logic and Other Essays [London: George Allen and Unwin Ltd., 1950], p. 57.)

The revelations: “God himself that formed the earth … created it not in vain, he formed it to be inhabited.” (Isa. 45:18.)

“For he is our God; and we are the people of his pasture, and the sheep of his hand.” (Ps. 95:7.)

“For behold, this is my work and my glory—to bring to pass the immortality and eternal life of man.” (Moses 1:39.)

“Men are, that they might have joy.” (2 Ne. 2:25.)

“But the very hairs of your head are all numbered.” (See Matt. 10:29–30.)

Not only are the hairs of our heads numbered, but the planets also: “But only an account of this earth, and the inhabitants thereof, give I unto you. For behold, there are many worlds that have passed away by the word of my power. And there are many that now stand, and innumerable are they unto man; but all things are numbered unto me, for they are mine and I know them.” (Moses 1:35.)

The fears: Mankind is destined to extinction … there is nothing we can do. We have no personal life beyond the grave; there is no God. “Fate knows nor wrath nor ruth.” (James Thomson, The City of Dreadful Night and Other Poems [London: Bertram Dobell, 1899], pp. 29–30, 35–36.)

The reassurances: “And the graves were opened; and many bodies of the saints which slept arose,

“And came out of the graves after his resurrection, and went into the holy city, and appeared unto many.” (Matt. 27:52–53; see also 3 Ne. 23:9–11.)

“O death, where is thy sting? O grave, where is thy victory?” (1 Cor. 15:55.)

“O how great the plan of our God!” (2 Ne. 9:13.)

Some despair who are, as Peter said, willingly ignorant (see 2 Pet. 3:5) or, as Nephi said, who will not search or understand great knowledge (see 2 Ne. 32:7). For these, a pessimistic philosophy is “pleasing unto the carnal mind.” (Alma 30:53.) Why? Because behavioral permissiveness flourishes amid a sense of hopelessness. Because if human appetites are mistakenly viewed as the only authentic reality and “now” as the only moment which matters, why should one checkrein any impulse or defer any gratification? Hence, immortality and accountability are intertwined!

Yes, there are some who live without hope who, though having reached such a wrong conclusion, nevertheless maintain right conduct. In such decent individuals, the light of Christ, though unacknowledged, burns still. (See D&C 84:46.) If it were not so, we would despise a Gandhi and admire a Hitler, instead of feeling just the opposite!

Such spreading pessimism does not necessarily mean “back to the catacombs” for Christians, or that secular Caesars will soon reopen the Colosseum. But, already, there are would-be Caesars who will refuse to settle for citizens who render to Caesar only that which is his—and unto God all that is His. (See Matt. 22:21.)

This sense of despair is further intensified by the demonstrated emptiness of materialism. Increased goods will not suffice if men display decreased goodness. Likewise, the mere accumulation of knowledge without purpose and of information without wisdom constitutes ever learning but never coming to a knowledge of the truth. (See 2 Tim. 3:7.)

Afflicted with anguish, some wander to and fro upon the earth in search of truth without knowing where to find it. (See Amos 8:11–12;D&C 123:12.) One such prominent wanderer was described by a colleague: “It is strange how he persists … in wandering to-and-fro. … He can neither believe, nor be comfortable in his unbelief.” (Nathaniel Hawthorne, 20 Nov. 1856 in English Notebooks, ed. Randall Stewart [New York: MLA], pp. 432–33.)

Such is the scene, therefore, of which we are a part. Many reject the scriptures, the moral memory of mankind, and then declare absolutely the absence of absolutes. Others reject the light of the gospel and then grump over the growing darkness. Still others cut themselves off from God and lament the loneliness of the universe. Some pursue the paths of him who openly desires mankind’s misery (see 2 Ne. 2:27), and then bemoan their discontent.

The true Christian, of course, does not see life as an easy passage: “The cross comes before the crown and tomorrow is a Monday morning!” (C. S. Lewis, The Weight of Glory [Grand Rapids, Michigan: William B. Eerdmans Publishing Co., 1965], p. 14.) With ultimate hope, however, we can live cheerfully amid proximate insecurity. Life is a test in which man must overcome by faith, walking on the strait and narrow path—which is surely no escalator—but the path is there!

And death is not the permanent annihilation of the human personality and individuality! President Brigham Young wisely declared that the preservation of human intelligence and individuality through the Atonement and resurrection “is the greatest gift that ever was bestowed on mankind.” (Journal of Discourses, 5:53.)

Just as in translating, the Prophet Joseph Smith processed truths more profound than even he then knew—we are custodians and possessors of a gospel of bright and realistic hope. It is a hope for which many hunger more deeply than we can possibly imagine. We poorly serve the cause of the Lord, at times, with programmatic superficiality and by our lack of empathy for those who drift in despair.

Truly, we live and walk on “a streetful of splendid strangers,” whom we are to love and serve even if they are uninterested in us!

Therefore, seen through the eye of faith, the sweep of history is not evidence of a purposeless world. Instead, we see successive waves of humans, as the cast on this mortal stage changes, again and again.

And, however articulate some of those despairing actors are in this human drama, without the gospel light they view only a tiny portion of one scene, not even a whole act. And certainly not the whole play. Such are invited to understand the purposes and instructions of the Author of this drama. But when He finally “comes on the stage, the play is over!”

Meanwhile, we should not impute man’s failures to God! “Remember, remember that it is not the work of God that is frustrated, but the work of men.” (D&C 3:3.)

Indeed, man’s successes and failures were known from the beginning by the Lord and were taken into account by Him in the unfolding of His plan of salvation. (See 1 Ne. 9:6.) His purposes will be fully achieved.

Justice, love, mercy, and truth will finally prevail in a universe presided over by a Lord who is a determined as well as a loving Tutor. This mortal school is one of which the Father and the Son have solemnly declared, “And we will prove them herewith, to see if they will do all things whatsoever the Lord their God shall command them.” (Abr. 3:25.)

The Lord knows how true individual development requires a setting of agency and opportunity. There is no other way.

No wonder Apostles and prophets have told us not to be moved away from the hope of the gospel, for hope is “an anchor of the soul” (Heb. 6:19) to “make them sure and steadfast, always abounding in good works.” (Ether 12:4; see also Col. 1:23.)

The need, therefore, is for devoted disciples to do as Paul said, to “shine as lights in the world” (Philip. 2:15), illuminating that latter-day valley foreseen by Joel: “Multitudes, multitudes in the valley of decision: for the day of the Lord is near in the valley of decision.” (Joel 3:14; see also Rev. 16:16Zech. 14:2.)

The very way in which these illuminated individuals “take up [the] cross daily” is a sermon in itself. (See Luke 9:23.) They lead lives not of quiet desperation but of quiet inspiration, constituting what Paul would call their “defence and confirmation of the gospel.” (Philip. 1:7.)

Theirs represents a tinier and quieter history within the larger and noisier human history, a joyful and reassuring drama within the more despairing drama being played out on this planet.

The first scene: A mission president is called on very short notice to replace a mission president who has died. The faithful wife, in one case, brings her husband’s body home, while the other sister, just out of surgery, willingly responds to the call to join her husband far from home. Each sister handles her stern challenge trustingly, sweetly, and without murmuring. They understand that sin is the only real tragedy!

A second snapshot: A young mission president, his wife, and five children in spartan circumstances. Water must be boiled and placed in their van as they drive for hours under a scorching sun to be with scattered missionaries and Saints. Adopted children from another culture are now in a home which is developing a celestial culture, where the mother is the children’s only school teacher. Uncomplainingly, this family goes effectively about their labors—quite innocent of how special they are! They know they are included in this reassuring declaration: “all flesh is in mine hands; be still and know that I am God.” (D&C 101:16.)

Next, in Germany a serviceman solicitously rounds up his military friends in his van to go to a special Young Adult conference. One friend cannot be found in time, and this special serviceman left some of his meager and precious savings for an airplane ticket so that individual could then fly to the needed nourishment of that conference. Intrinsically, this benefactor follows the second great commandment and rejects the despairing declaration that “hell is other people.”

Another portrait is of a youthful disciple, a woman gymnast paralyzed because of a tumble. She fell not into paralysis but into saintliness. She becomes a witness in a wheelchair. How tall she stands, and how much she stretches the souls of others! Her deprivation is like an excavation, the readying of a reservoir into which a generous God, one day, will pour the Malachi measure of compensatory blessings, “that there shall not be room enough to receive it.” (Mal. 3:10.)

Another montage: Widows and widowers, waiting patiently and trustingly for the time of their release, when they can rejoin their eternal companions. Meanwhile, they go about their duties. Like Alma and Paul, they have learned to be content in their allotted circumstances. (See Alma 29:3, 6Philip. 4:11.)

Likewise, one deeply admires those wronged who, nevertheless, go on doing that which is right, refusing to become offended or bitter. Let others charge God foolishly (see Job 1:22); these faithful souls are magnanimous and forgiving, as was a generous Joseph in Egypt to his erring brothers: “Now therefore be not grieved, nor angry with yourselves, that ye sold me hither: for God did send me before you to preserve life.” (Gen. 45:6.) Such Saints fashion forgiveness where others would revel in resentment!

One is humbled by the spiritual submissiveness of the dying young mother of twenty-six, understandably anguished at the prospect of not rearing her two children, one of whom she so recently made ready to lay down her life for, if necessary. The baby arrived safely, but, alas, the gallant mother could not tarry. With childlike faith this young sister touchingly inquired, “If I am to die, then how can I help my husband and my parents as they watch me die?” Surely she (and others similarly situated) faithfully conforms to King Benjamin’s portrait of a Saint as one being “willing to submit to all things which the Lord seeth fit to inflict upon him, even as a child doth submit to his father.” (Mosiah 3:19.)

Such individuals give to us a continuing sermon in sainthood. The gospel light has “infused such joy” into their souls, that any cloud of darkness has been dispelled. (Alma 19:6.)

“By the patience of hope and the labor of love” these are finishing the work the Lord has given them to do. (See “Come, Let Us Anew,”Hymns, no. 17.)

Let the winds and the storms beat and pound upon such faithful Saints; they will overcome the world—not vice versa. Let others falter; these will not! Let others pout and doubt; these will not! Let some noisily mock the temple; these will quietly flock to the temple, to do the work of Him whose house it is!

God bless you faithful brothers and sisters for shining “as lights in the world” (Philip. 2:15), as beacons to dispel despair. To a world spiritually illiterate, you give great lessons in the grammar of the gospel, including this one: death is a mere comma, not an exclamation point!

In the holy name of Jesus Christ, amen.

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