モルモン

とは?

What of the

Mormons?

 

貴重なメッセージ

 

 

戻る

「もし汝よくこれを耐え忍ばば」十二使徒定員会会員ニール・A・マックスウエル聖徒の道19907月号37

真の忍耐は単にだまって時を過ごすことではなく、様々な経験を経て成長していく心の過程とも言うべきものです。

きょう新たに召された教会幹部とき指導者の方々を心から歓迎いたします。皆様が長年にわたり主に近くあられたからこそ、この日を迎えられたのではないでしょうか。

天父のみ声が聞こえた数少ない折に、御父はこのように仰せになりました。「わが愛子(あいし)の言うことは真実にして(たしか)なり。終りまで忍ぶ者は救われん。」(IIニーファイ31:15)天父はあらゆる事柄の中でとりわけ忍耐を強調されました。それはなぜでしょうか。

まず第一に、神が繰り返し述べておられるように、現世は私たちの忍耐と信仰を試すためにあるからです。(アブラハム3:25;モーサヤ23:21参照)天父は、確かにご自分の約束を守り、み旨を実行されてきました。ペテロは、私たちが経験する火のような試練ですら、「何か思いがけないこと」(1ペテロ4:12)のように考えてはならないと言っています。忍耐こそなくてはならないものであり、最後まで耐え忍ぶ人は最も霊性の高い人となるのです。

私たちはイエスのくびきを負い、耐え忍ぶことにより、イエスについて深く知り、主のようになるにはどうしたらよいかを学ぶことができます。(マタイ11:29参照)主のなさった経験に比べれば私たちの経験はささいなものにすぎませんが、歩む道は同じなのです。

耐え忍ぶべき事柄はたくさんあります。病、不正、貧困、孤独、そして人々の無神経な行ないや冷淡な対応、誤解やときには敵対心にも耐え忍ばなくてはなりません。パウロの言葉を通して、柔和で心のへりくだったイエスは、宇宙の造り主であられながらも、「罪人らのこのような反抗を耐え忍んだ」(ヘブル12:3)ことを私たちは思い起こします。主の弟子たちも皆、程度の差こそあれ、人々からこのような反抗や敵意を向けられたのです。

えてして私たちは、自分自身の立場からのみ忍耐ということを考えがちですが、私たちが成長するためにぜひとも必要な場所と時間を授けられ、進歩するための機会を与えられているのは、神の深き忍耐心のおかげにほかなりません。(アルマ42:4-5参照)

パウロはこのように述べています。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル12:11)そのような「平安な実」は、花のつぼみが開いた後に、定められた季節を迎えて初めて結ぶのです。

そのようにして実が熟すのを待たず、現世における特定の経験を省略してしまうのは、あたかも根がどうなっているかを見るために花の苗を引き抜くようなものです。言い換えれば、ケーキができたかどうか気がかりのあまり、何度もオーブンを開けて見るようなものです。そんなことをすれば、ケーキはふくらまずにむしろしぼんでしまいます。また、無理に変化させようとすると、たいてい長続きしません。それに対して、前向きの気持ちで忍耐すると、永続性のある変化を生み出すことができるのです。(アルマ32:13参照)

忍耐は、単に受け身的にされるがままになることとは違います。限られた情況というおりの中でいたずらに歩き回ることだけでもありません。与えられた事柄を受け入れるだけではなく、それを最大限に生かして自分自身で行動することです。(アルマ29:36参照)たとえば、もし具合が悪くないかどうかを知ろうとしていつも体温を計ってばかりいれば、逆に具合が悪くなってしまうでしょう。同様に、物事が正しく行なわれているか、いつもそればかりに気を取られていたら、実際にはむしろ現実が見えなくなり、自分自身に対して公正な判断ができなくなるでしょう。

真の忍耐は単にだまって時を過ごすことではなく、様々な経験を経て成長していく心の過程とも言うべきものです。しかも、一歩や二歩だけではなく、ときにはあらゆる段階を経て成長しなたくてはなりません。「信仰して堪え忍び〔神の〕(こころ)を行う」(教義と聖約63:20101:35参照)ためには、ただ置かれた状況に耐えるだけで終わってはならないのです。

真の忍耐は、肩をすくめる程度のものではありません。魂が震えるような大きな経験です。イエスは、いくつかの毛穴からではなく「あらゆる毛の(あな)より血を()かせ」られたのです。(教義と聖約19:18)

ときとして、私たちの霊を主に従わせるためには、愛の心で相手を離さない必要があります。たとえば、反抗する子供に対して、ほかの人たちは「かまわずに好きなようにさせなさい」と言ったとしてもです。また、逆に、自分の気持ちを抑えて相手を行かせなくてはならない場合もあります。愛する者が「死の命を受け」た(教義と聖約42:48)ときなどがそうです。忍耐心を持つならば、私たちにはどうすることもできない状況の波が押し寄せてきたときにも、主に対する信仰を保ち、主が様々な事柄にそれぞれの時を定めておられるのを信じることができます。そして、たとえ大波にのまれ、転倒したかに見えても、実際には打たれ傷つきながらも前進することができるのです。

誘惑に耐えることは、非常に大きなチャレンジのひとつです。イエスは誘惑に耐え、決して負けませんでした。(モーサヤ15:5参照)キリストは誘惑を「心に留め」なかった(教義と聖約20:22)ために、耐え抜かれたのです。私たちは、誘惑に対しても最初から毅然(きぜん)とした態度で拒否せずあいまいな姿勢を見せると、結局はいくらか屈してしまうことになりかねません。誘惑に対していくらかでも心を留めることは、後に誘惑に屈伏する用意をしていることになるのです。

各個人に課せられた特別なチャレンジは、非常に困難で予期せぬものである場合がよくあります。たとえば、モーサヤ王は民に尊敬されていましたが、皮肉にも息子たちはしばらくの間教会に反抗する敵となりました。にもかかわらず、良識ある民はモーサヤ王を敬い続けました。

そのように私たちも予期せぬ苦難によって打ちのめされた人に対して寛容さを示すことができるでしょうか。私たち自身が特別な試練に遭っていないときには、ほかの人が試練に耐えられるように助け、思いやりをもって霊的な励ましを与えなくてはなりません。自分自身の小さなカルバリの丘に通じるまっすぐで狭い道を歩んでいる私たちは、だれも手を差し伸べてくれないと嘆く叫びを耳にすることはないはずです。(1コリント10:13参照)

忍耐心を持つならば、たとえ疲れ切って道端で休みたいと思えるときにも、「強く進まなければならない」という意欲がわいてくることでしょう。(IIニーファイ31:20参照)主は、ある予言者をそのたゆまぬ努力ゆえにほめられました。(ヒラマン10:4;15:6参照)

また、パウロは、忠実な弟子たちが、「神の御旨(みむね)を行っ〔た後も〕必要なのは忍耐である」(ヘブル10:36)と述べています。善良な人が初めのうちは正しいことを行ないながらも、だんだんと悪の力に負けてしまうという例は枚挙にいとまがありません。非常に大きな試練を身に受けたときにも正しい行ないを続けることは、とても立派なことです。しかし、一見つまらない日常茶飯事に見える事柄の中に潜んでいる恒常的なストレスに対処することも、同様に立派なことです。どちらの場合にも、「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬ」かなくてはなりません。(ヘブル12:1)しかも、その競走は短距離競走ではなく、マラソンなのです。

私たちが忍耐心に欠けるのは、神の時刻表よりも自分の時刻表に従っているからです。次のような聖句に見られる「時到りて」という言葉は「ついには」という意味ですが、これは霊的な成長過程すべてに当てはまる表現です。「主エノクにこの世に住める者をことごとく見せたまえり。(しか)して、エノクは見たり、みよ、誠にシオンは時到りて天にとり挙げられたるを。」(モーセ7:21。教義と聖約38:13;創世4:3;38:12;出エジプト2:23;士師11:4;歴代下21:19参照)

言うまでもなく、時が経過すればそれだけで自動的に進歩できるわけではありません。しかし、私たちが天父の霊の子として本心に立ち返るためには、「時到る」必要がよくあります。(ルカ15:17参照)血を分けた兄弟でありながら長年にわたって争っていたヤコブとエサウが砂漠で感動的な再会をしたことは、昔からよく知られている話です。寛容さが敵意に取って代わるのです。けれども、己を顧み、深く考えられるようになるには時間がかかります。霊的に成長するには、時間をかけて真理を体験することが必要であり、そのような体験こそ多くの病を(いや)す特効薬ともなるのです。

私たちは経験を通して、高い霊性を身に付けることができます。(教義と聖約122:7参照)たとえば、ラバンはヤコブを解雇したがりませんでした。なぜならラバンはヤコブのゆえに主が祝福してくださったことを経験を通して知ったからです。(欽定訳創世30:27参照)今日でも、現代の教会はシオンの中心地を築くのを「(しば)しの間……猶豫(ゆうよ)する」ように指示されています。その理由は、私たちが「備えをなし……経験を持」つためです。(教義と聖約105:9-10)私たちは具体的な個々の経験を通して知識を得ますが、ひとつずつ、それぞれの事柄について「ただ〔その〕ことのみに関して」(アルマ32:34)知識を得るのです。「ほかに方法はないのだろうか」と考えることもあるかもしれませんが、このようにして一歩一歩進むほかはないのです。各自が霊的に成長するには、長い時間をかけて徐々に従順を身に付けていかなくてはなりません。ちょうど木が生長してその完成された形になるには、小枝が折れるのではなくたわむ必要があるようなものです。

柔和な気持ちで忍耐しない人は、見、聞き、知り、理解する力も少ないと言えましょう。利己的ですぐに腹を立てる人は、多くのものを得る機会を失っています。

いずれにせよ、いくらかの熱に耐えられなくて、どうして精練の火をくぐることができるでしょうか。教えを受けるために待つことができずして、忍耐心を養えるでしょうか。また、互いの苦難を背負えずして思いやりの心を培えるでしょうか。人を助けることは相手の苦難を軽くするばかりではありません。思いやりに満ちた広い心を身に付けることによって私たち自身が一層啓発され理解力を深めることができるのです。現在目の前にある問題に正しく対処できない者が、どうして将来成長して大いなる者となり得ましょうか。

人が真に成長するには、単に表面的な形の上だけではなく、根元から変わらなくてはなりません。偽善や好智(かんち)など人の心に深く根付いた性質は、容易に取り去ることはできないものです。けれども、「よくこれを耐え忍」ぶならば、試しを受けている間いら立つこともなくなるでしょう。さらに、悲しみは私たちの心を広げ、後に喜びをもたらすものです。

すなわち、忍耐はきわめて重要な特性のひとつであり、現世という第二の位、すなわち経験を通して学ぶ試しの時期なくしては決して身に付けられないものなのです。忍耐に関する理論をいくら上手に講義しても、それだけでは十分ではありません。そのほかの重要な徳すなわち、愛、謙遜(けんそん)、憐れみ、清さ、従順、正義などを完全に身に付けるためにも、忍耐が必要です。

物事を深く理解する第一歩は、不思議に思うことです。それはちょうどドアを開けるためには取っ手を回さなくてはならないようなものです。取っ手をしっかりと握り、ドアが開くという信仰を持って落ち着いて回さなくてはなりません。精神という畑にもくわを入れ、作物が豊かに実るように土を掘り起こすことが必要です。モーセも、そのように努力して状況が180度転換するような経験をしました。モーセよりも未熟な者であったなら、エジプトの宝や特権階級の地位を捨てることはできなかったでしょう。しかも、捕らえられ、後には、かつて自分が裁く側の一員であった王の法廷で、予言者として人々の憤りを買うことになったのです。しかし、モーセは「信仰によって……忍びとおした」と記されています。(ヘブル11:26-29参照)

ジョージ・マクドナルドは、神を喜ばせることはたやすいが、満足させることはむずかしいと述べています。天父なる神は、私たちが一歩を踏み出すことを喜んでおられますが、その道がいかに狭くまっすぐで長いかをよくご存じです。忍耐はなんと大切なものでしょうか。

主は私たちに学習の場としての現世を与えてくださいましたが、幸いなことに、同時に、栄光に満ちたすばらしい祝福を約束しておられます。「(しか)して……信仰をもて堪え忍ぶ者たちは……すべてこの光栄に(あずか)るを得べし。」(教義と聖約101:35)

永遠の生命は、神殿のすべての聖なる儀式に伴って授けられた特別な約束をすべて成就します。ヨハネは「召され……選ばれた、忠実な者たち」は、「これらのものを受け継ぐであろう」(黙示17:14;21:7)とはっきり述べています。現代の聖典には、このような特別な人たちは、最終的には、「父のもてるすべて」(教義と聖約84:38)を受けると確認されています。そのような豊かな祝福は、私たちには想像することさえもできないでしょう。

また、忍耐心のある人は、たとえ貧しくても喜びを味わい、感謝の気持ちを抱きます。たとえ不正に遭っても従順に耐えるのです。柔和な心でじっと耐え忍ぶ人には、決して「苦い根がはえ出て」(ヘブル12:'15)くることがありません。また、これらすべてのことにあっても、ヨブのように賢くあるならば、私たちは「神に向かって愚かなことを言わな」いでしょう。(ヨブ1:22)

すべての徳において、イエスは私たちの模範です。イエスのくびきを負うことにより、私たちも、「虚弱の度に応じて〔互い〕を救う方法を知る」(アルマ7:12)ことができるようになります。そして、様々な人生経験を積み重ねて最後の日を迎えるときに、イエスが十字架上で言われたように、私たちもみずからの持つ尺度に照らし合わせて、「すべてが終っ左」と言うでしょう。(ヨハネ19:30)そのとき、私たちが行なうようにと一人一人に神がお授けになった特定の業を成し遂げ、自分自身の準備を成し終えることになるのです。(教義と聖約19:19;ヨハネ17:4参照)しかし、私たちの前に差し出された小さな杯は、主の杯と同様取りのけられることはありません。なぜなら、「わたし〔たち〕はこのために、この時に至った」からです。(ヨハネ12:27)

イエスの経験に比べれば小さくはあっても、私たちそれぞれにふさわしい方法で、「身と霊と(ふた)つながらを苦しめ」る(教義と聖約19:18)ような経験をするでしょう。肉体的な苦しみもあり、精神的な苦しみもあります。また、両者が相まっている場合もよくあります。

そこで、これまでに問われてきた最も大きな人生の問いが、時空を超えて私たちの耳に響いてきます。「『人の子』は一切これらのものの下に身を落したり。(なんじ)は彼より大いなるか。」(教義と聖約122:8)イエスはすべての事柄を理解するために、最も高い山の頂まで昇ると同時に、最も低い谷底まで落ちるような経験をされました。(教義と聖約88:6参照)だからこそ、イエスは私たちの罪を完全に(あがな)ってくださったばかりでなく、すべてのことを理解してくださる救い主でもあられるのです。

贖罪(しょくざい)の苦しみを表わすイエスの言葉はほとんど記されてはいませんが、それは「苦きさかずきより()まずしてしりごみするも可ならん」ことを願われたほどでした。(教義と聖約19:18)しかし、従順なキリストは、その「苦しみをなめ、……準備(ととのえ)()し終」えられたのです。(教義と聖約19:19)この行為一つ一つが非常に重要です。パウロがイエスを、「信仰の……完成者」(ヘブル12:2)と呼んだのももっともなことと言えましょう。

贖罪の苦しみを述べた後、イエスは私たちに「わが『みたま』の柔和なる道を歩め」と勧め、「さらば、汝われに()りて安きを得ん」と述べておられます。(教義と聖約19:23)私たちがひるむことなく安心して歩めるのは、この道だけなのです。そしてこの道を歩む人は、「人知ではとうてい測り知ることのできない」平安を得ることができます。(ピリピ4:7)

よく耐え忍ぶ人には、穏やかで平安に満ちた威厳が漂っています。また、人には語らずとも、パウロのように信仰を守り抜いたという自覚が心の内に秘められているのです。

初等協会のコーラスが歌うように、私たちの務めは「イエスさまのようになり」、「主のみ教え」を覚えることです。(『イエスさまのようになろう』「子供の歌」改訂版英文、p.78)キリストが私たちに示してくださった永遠に変わらぬこの上なく美しく力強い忍耐の模範に、私は皆さんの前で心から感謝申しあげます。イエス・キリストのみ名によりお話しいたしました。アーメン。

 

 “Endure It Well,” Neal A. Maxwell, Of the Quorum of the Twelve Apostles, April 1990 General Conference.

May I add my personal welcome to those brethren and sisters newly sustained today. What has happened today would not have occurred had you not married so well spiritually so many years ago.

On one of those rare occasions when His very voice was heard, the Father testified, “Yea, the words of my Beloved are true and faithful. He that endureth to the end, the same shall be saved” (2 Ne. 31:15.) Of all that the Father might have said, He stressed endurance. Why?

First, because God has repeatedly said He would structure mortality to be a proving and testing experience. (See Abr. 3:25Mosiah 23:21.) Brothers and sisters, he has certainly kept His promise. He has carried out His divine intent, hasn’t He? Thus, even our fiery trials, said Peter, should not be thought of as “some strange thing.” (1 Pet. 4:12.) Hence, enduring is vital, and those who so last will be first spiritually!

By taking Jesus’ yoke upon us and enduring, we learn most deeply of Him and especially how to be like Him. (See Matt. 11:29.) Even though our experiences are micro compared to His, the process is the same.

There are so many things to be endured: illness, injustice, insensitivity, poverty, aloneness, unresponsiveness, being misrepresented and misunderstood, and, sometimes, even enemies. Paul reminds us that meek and lowly Jesus, though the Lord of the universe, “endured contradiction of sinners against himself.” (Heb. 12:3.) Smaller variations of these contradictions or hostilities will be felt by His disciples.

We tend to think only in terms of our endurance, but it is God’s patient long-suffering which provides us with our chances to improve, affording us urgently needed developmental space or time. (See Alma 42:4–5.)

Paul observed, “Now no chastening for the present seemeth to be joyous, but grievous: nevertheless afterward it yieldeth the peaceable fruit of righteousness.” (Heb. 12:11.) Such “peaceable fruit” comes only in the appointed season thereof, after the blossoms and the buds.

Otherwise, if certain mortal experiences were cut short, it would be like pulling up a flower to see how the roots are doing. Put another way, too many anxious openings of the oven door, and the cake falls instead of rising. Moreover, enforced change usually does not last, while productive enduring can ingrain permanent change. (See Alma 32:13–16.)

Patient endurance is to be distinguished from merely being “acted upon.” Endurance is more than pacing up and down within the cell of our circumstance; it is not only acceptance of the things allotted to us, it is to “act for ourselves” by magnifying what is allotted to us. (See Alma 29:3, 6.)

If, for instance, we are always taking our temperature to see if we are happy, we will not be. If we are constantly comparing to see if things are fair, we are not only being unrealistic, we are being unfair to ourselves.

Therefore, true enduring represents not merely the passage of time, but the passage of the soul—and not merely from A to B, but sometimes all the way from A to Z. To endure in faith and doeth God’s will. (See D&C 63:20D&C 101:35) therefore involves much more than putting up with a circumstance.

Rather than shoulder-shrugging, true enduring is soul-trembling. Jesus bled not at a few, but “at every pore.” (D&C 19:18.)

Sometimes spiritual obedience requires us to “hold on” lovingly, such as to a rebellious child, while others cry, “Let go!” Enduring may likewise mean, however, “letting go,” when everything within us wants to “hold on,” such as to a loved one “appointed unto death.” (D&C 42:48.)

Patient endurance permits us to cling to our faith in the Lord and our faith in His timing when we are being tossed about by the surf of circumstance. Even when a seeming undertow grasps us, somehow, in the tumbling, we are being carried forward, though battered and bruised.

Enduring temptation is one of the greatest challenges. Jesus endured temptation but yielded not. (See Mosiah 15:5.) Christ withstood because He gave “no heed” to temptations. (D&C 20:22.) You and I tend to dally over and dabble in temptations, entertaining them for a while, even if we later evict them. However, to give temptations any heed can set the stage for later succumbing.

The customized challenges are often the toughest and the most ironical. For instance, King Mosiah was venerated of his people, yet, ironically, his sons became damaging enemies of the Church for a season. Nevertheless, his discerning people still esteemed Mosiah.

Will we have that same perceptive tolerance for those being wrenched by a cruel irony? When, for the moment, we ourselves are not being stretched on a particular cross, we ought to be at the foot of someone else’s—full of empathy and proffering spiritual refreshment. On the straight, narrow path, which leads to our little Calvarys, one does not hear a serious traveler exclaiming, “Look, no hands!” (See 1 Cor. 10:13.)

With enduring comes a willingness, therefore, to “press forward” even when we are bone weary and would much rather pull off to the side of the road. (See 2 Ne. 31:20.) Hence, one prophet was especially commended by the Lord for his unwearyingness. (SeeHel. 10:4; see also Hel. 15:6.)

Paul wrote of how, even after faithful disciples had “done the will of God,” they “[had] need of patience.” (Heb. 10:36.) How many times have good individuals done the right thing initially only to break under subsequent stress? Sustaining correct conduct for a difficult moment under extraordinary stress is very commendable, but so is coping with sustained stress subtly present in seeming routineness. Either way, however, we are to “run with patience the race that is set before us” (Heb. 12:1), and it is a marathon, not a dash.

When you and I are unduly impatient, we are suggesting that we like our timetable better than God’s. And thus, while the scriptural phrase “in process of time” means “eventually,” it also denotes an entire spiritual process:

“The Lord showed unto Enoch all the inhabitants of the earth; and he beheld, and lo, Zion, in process of time, was taken up into heaven.” (Moses 7:21; see also D&C 38:13Gen. 4:3Gen. 38:12Ex. 2:23Judg. 11:42 Chr. 21:19.)

By itself, of course, the passage of time does not bring an automatic advance. Yet, like the prodigal son, we often need the “process of time” in order to come to our spiritual senses. (Luke 15:17.) The touching reunion of Jacob and Esau in the desert, so many years after their sibling rivalry, is a classic example. Generosity can replace animosity. Reflection can bring perception. But reflection and introspection require time. So many spiritual outcomes require saving truths to be mixed with time, forming the elixir of experience, that sovereign remedy for so many things.

We find that experience can produce a high spiritual yield. (See D&C 122:7.) Laban, for instance, was reluctant for Jacob to leave his employ, “for I have learned by experience that the Lord hath blessed me for thy sake.” (Gen. 30:27.) The modern Church even today is instructed to “wait for a little season” to build up central Zion. Why? So that we “may be prepared … and have experience.” (D&C 105:9–10.) We gain knowledge through particular experiences, but only incrementally, “in that thing.” (Alma 32:34.) Hence the ongoingness of it all, and perhaps we can be forgiven for wondering, “Is there no other way?” Personal, spiritual symmetry emerges only from the shaping of prolonged obedience. Twigs are bent, not snapped, into shape.

Without patient and meek endurance we will learn less, see less, feel less, and hear less. We who are egocentric and impatient shut down so much of our receiving capacity.

In any case, brothers and sisters, how could there be refining fires without enduring some heat? Or greater patience without enduring some instructive waiting? Or more empathy without bearing one another’s burdens—not only that others’ burdens may be lightened, but that we may be enlightened through greater empathy? How can there be later magnification without enduring some present deprivation?

The enlarging of the soul requires not only some remodeling, but some excavating. Hypocrisy, guile, and other imbedded traits do not go gladly or easily, but if we “endure it well” (D&C 121:8), we will not grow testy while being tested.

Moreover, we find that sorrow can actually enlarge the mind and heart in order to “give place,” expanded space for later joy.

Thus, enduring is one of the cardinal attributes; it simply cannot be developed without the laboratory time in this second estate. Even the best lectures about the theory of enduring are not enough. All the other cardinal virtues—love, patience, humility, mercy, purity, submissiveness, justice—they all require endurance for their full development.

Puzzlement, for instance, is often the knob on the door of insight. The knob must be firmly grasped and deliberately turned with faith. The harrowing of the soul can be like the harrowing of the soil to increase the yield with things being turned upside down.Moses experienced such topsy-turvy change. A lesser individual couldn’t have forsaken Egypt’s treasures and privileged status only to be hunted and later resented as a prophetic presence in the royal courts which he had doubtless known earlier, but as an insider. Yet we are told Moses endured by faith. (See Heb. 11:24–29.)

George Macdonald has said that God is easily pleased, but hard to satisfy. As a Father, God is delighted with our first and further steps, but He knows how straight, how narrow, and how long the ensuing path is. Again, how vital endurance!

Happily, while the Lord has promised us a tutoring mortality, He has also promised us glorious things as well!

“And all they who … endure in faith … shall … partake of all this glory.” (D&C 101:35.)

Eternal life brings to us, brothers and sisters, the full bestowal of all the specific promises made in connection with all the temple’s holy ordinances. John declared that the “called, and chosen, and faithful” shall “inherit all things.” (Rev. 21:7; see also Rev. 17:14.) Modern scriptures confirm that these special souls will eventually receive “all that [the] Father hath.” (D&C 84:38.) “All”! You and I cannot even imagine such bounteous blessings.

Meanwhile, with spiritual endurance there can be felicity amid poverty, gratitude without plentitude. There can even be meekness amid injustice. One never sees the “root of bitterness springing up” in the enduring meek. (Heb. 12:15.)

While in the midst of all these things, if we are wise like Job, we will avoid charging God foolishly. (See Job 1:22.)

As with every virtue, Jesus is the Exemplar. While shouldering Jesus’ yoke, we, too, can better come to “know according to the flesh how to succor [each other].” (Alma 7:12.)

Likewise, by seeing life’s experiences through to the end, on our small scale, we can finally say, as Jesus did on the cross, “It is finished.” (John 19:30.) We, too, can then have “finished [our] preparations,” having done the particular work God has given each of us to do. (D&C 19:19; see also John 17:4.) However, our tiny cup cannot be taken from us either. For this reason have we come unto the world. (See John 12:27.)

In a small, but nevertheless sufficient way, we will experience what it is to suffer “both body and spirit.” (See D&C 19:18.) Some afflictions are physical, others mental, or so begin. Often, however, they are interactive, forming a special pain.

Therefore, one of the most powerful and searching questions ever asked of all of us in our sufferings hangs in time and space before us: “The Son of Man hath descended below them all. Art thou greater than he?” (D&C 122:8.) Jesus plumbed the depths and scaled the heights in order to comprehend all things. (See D&C 88:6.) Jesus, therefore, is not only a fully atoning but He is also a fully comprehending Savior!

Jesus’ few dozen words describing the agonies of the Atonement reveal that He was determined that He “not drink the bitter cup, and shrink” (D&C 19:18) or pull back. Instead, submissive Christ reminded us that He both “partook” and “finished.” (See D&C 19:19.) Each act was so essential! No wonder Paul called Jesus the “finisher of our faith.” (Heb. 12:2.)

After describing the agonies of the Atonement, Jesus urged us to “walk in the meekness of my Spirit, and you shall have peace in me.” (D&C 19:23.) This is the only way, brothers and sisters, that you and I can avoid shrinking while achieving that peace which “passeth all understanding.” (Philip. 4:7.)

You and I see in those who “endure it well” a quiet, peaceful majesty, an unspoken, inner awareness that, like Paul, they have “kept the faith.” And they know it, though they do not speak of it.

Now, as this lovely Primary chorus will sing, our task is “trying to be like Jesus” and remembering the “lessons He taught.” (“I’m Trying to Be Like Jesus,” Children’s Songbook, p. 78.)

For the eloquence and for the exquisiteness and the elegance of Christ’s everlasting example of enduring, I express again my public gratitude, my undying gratitude to the Father for the gift of His Son, and I so express it in the name of Jesus Christ, amen.

Official Web site of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints © 2014 Intellectual Reserve, Inc. All Rights Reserved