モルモン

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ボイド・K・パッカー「うわべで人をさばかないで」

聖徒の道1979年10月号、112からの抜粋 

私は、だれにでもありがちな信仰の試しと闘っている教会員にお話したい。 

信仰がぐらついているその人の手を取り,支えることができるならば,そのためにはほかの方々の時間を少しいただくこともよいかと思う。 

時折私のところへ,教会の指導者であるだれそれが良くないことをしているそうだと聞いて,信仰を失いかけている人がやってくる。例えば,ある青年は教会で活動していることを仲間からいつも馬鹿にされていた。その仲間は,監督が仕事でだれかをだましたとか,ステーキ部長が契約の一部を偽ったとか,伝道部長が借金をしているとか,そのようなうそを言いふらしていた。 

また,ある人に冷たくして神殿推薦状を発行しなかったのに,資格のないことが明らかなあの人にはひいきをして推薦状を発行したとも言う。 

おそらく彼らは教会指導者についても同様に言っていることだろっ。そして,この種のことが,福音は真実でない,教会は神から霊感を受けていない,あるいは間違って導かれているというこどの証拠として話される。 

青年はそのような非難に満足な答えができなかった。そして何らなすすべなく,そのようなことを愚かしく感じた。その上,教会を批判する仲間に引かれそうな気持ちにさえなった。 

彼は聞かされた話を鵜呑(うの)みにしたのだろうか。それはわからない。しかし,多少はそのことを信じだに違いない。 

もしあなたがそのような信仰の試しに遭遇したらどうであろうか。私がその青年に尋ねた質問に答えてみていただきたい。

あなたはこれまで,神権会,聖餐会,扶助協会,日曜学校,大会やファイアサイド,セミナリーの授業や神殿のセッション,その他教会が主催する会に出席して,不正直や仕事上の不正や詐欺を奨励されたことがあっただろうか。

青年はいいえと返事した。

次の質問である。

あなたは教会のパンフレットや聖典,レッスンのテキスト,教会誌で,うそや盗み,不正,詐欺や不道徳,無作法,冒濱,野蛮,生き物の虐待などを肯定している記事を読んだことがあるだろうか。 

青年はじっくりと考えた末に,またもいいえという返事であった。 

あなたは訓練会や指導者会や面接などで,罪や不正を奨励された経験があるだろうか。過激なことや,無分別なこと,極端なことを勧められた経験があるだろうか。

青年はいいえと答えた。 

あなたは教会にいて,監督や扶助協会会長,高等評議員,ステーキ部長,教会幹部などと身近に接している。これらの人々が,これまで述べたような行ないをしているように見えるだろうか。 

青年はいいえと答えた。

あなたは教会に活発で,責任を与えられてきた。教会がこれまセ述べてきたことを微塵(みじん)も推賞していないことはよく御存じのはずである。 

その通り,よく承知していると彼は答えた。 

私は彼に尋ねた。それでは,そういう話を聞いた時に,なぜ教会が悪いと考えるのだろうか。 

教会の教えや教義には,不正直でよい,不道徳でも無責任でも無頓着でもよいとは一言も言われていない。

あなたはこれまでの人生で,教会員が,それも特に高い職にあればなおさらのこと,何かの点で資格がないと言われる時,それは教会の標準に反していること,だと教えられなかったであろうか。そのような入は教会の教えや教義と調和せず,指導者らしくない。 

そうであるとすれば,ほとんどの噂は間違いか,あるいは偽りである。そのような人づての話によって自分の信仰を弱くしてよいものだろうか。 

だれかが落胆していると,教会が原因だと考える人々がいる。離婚する人があると,どういうわけか教会が悪いと言われる。そのような例は数々ある。 

大きな事件で人物や内容が報道される時,当事者が教会員であると,たいていそのことが情報として載る。 

しかし,皆さんは強盗や窃盗,横領,殺人,自殺の記事で,バプテスト教会やメソジスト教会,あるいはカトリック教会が関係団体として報道されているのを見たことがあるだろうか。おそらくないと思う。 

では,不幸なその人物がモルモンであることをわざわざ記事にするのはなぜだろう。 

実際,それは逆説のほめ言葉である。教会員は善良で行ないも良いとされているので,それに反したことがあると,教会が引き合いに出されるのである。 

論争と争いを促す人々に注意していただきたい。「まことに,まことに汝らに告ぐ,争いを好む心ある者はわれに()く者にあらずして悪魔に()くものなり」と主は言っておられる。(IIIニーファイ1129) 

次の質問は,あなたの信仰を揺るがす人々についてのものである。

彼らの言うことは本当に公正だろうか。教会の高い標準に従えない言い訳や自分の怠慢をつくろうために,教会に責任を転嫁して人の行状を云々(うんぬん)しているとは考えられないだろうか。これは一般によくあることである。

では,教会の責任ある役職の人がふさわしくない言動をすることは1果たしてないだろうか。 

当然ながら,「ある」というのが答えである。例外ではあるが,しかしある。

私たちはステーキ部長や監督を召す時,次のように言うことがある。 

「あなたの責任は会員たちを管理することです。彼らは常に誘惑に遭います。ですから,その闘いに勝てるように彼らを助けてあげて下さい。彼らが成功を収めることができるように,適切な方法で管理して下さい。そのために自分を捧げて働いて下さい。

ついでですが,管理するあなたも試練や誘惑を必ず受けます。指導者ですから,誘惑や試練はなおのこと大きいでしょう。最善を尽くして,御自分の闘いに勝って下さい。」

もしも指導者にふさわしくない行為があった場合,それは教会が主張するものへの敵対行為であり,その人は解任されるべきである。

ごくまれにではあるが,重大な不法行為や道徳的問題で指導者を教会から破門しなければならないことがある。そうすることは悲しい責任である。 

しかしそれが教会に対する教会貝の信仰と非教会員の教会に対する信用をぐらつかせることはない。むしろ信頼を増すはずである。 

私が学生であった頃,私の信仰にとって一番の試しは三人の見証者の背教であった。もしも教会の体面を繕って教会の原則に妥協を加えるという誘惑がかつてあったとすれば,それは見証者の背教の時であったと思う。しかし教会は妥協しなかった。そのために,かつて私の信仰を揺るがせたその出来事が,逆に信仰を強くするひとつの錨と変わったのである。

人の話を聴く時は,賢明であってほしい。みんなと話して,すべてのことを聴くのでなければ,所詮本当のことはわからないからである。混乱の中に首を突っ込んでしまわないように,注意していただきたい。 

当事者として全部を知っているのでなければ,入を裁かない方がよい。

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。

あなたがたがさばくそのさばきで,自分もさばかれ……るであろう。」(マタイ71-2)