モルモン

とは?

What of the

Mormons?

 

 

 

真理を擁護する

Defending the Truth

 

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難しい質問と信仰の維持
マイケル・R・アッシュ  

第1第2

第3


私たちが中傷者に反論すべきかどうかという質問について、「はい」に条件が付く理由は何だろうか?少なくとも4つの考慮すべき理由がある。

1.議論でなく、「みたま」が改宗させる

霊的な事柄は霊的に識別しなければならないと理解することが重要である。主はこのように言われた。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう。」20
キリストが死すべき状態にあった間、ペテロは主から直接教えられた。それにもかかわらず、彼の救い主に対する証は死すべきメシアからでなく、むしろ天父から来た。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」21キリストとその福音に対する証は、ある人から別の人に伝わるといったものではなく、直接、また個人的な啓示という方法で来なければならない。ヒーバー・C・キンボールはこのように言った。「男性も女性も、借り物の光では耐えることができない時が来る。各々は、自分自身の内なる光で導かれなければならない。あなたがそれを持っていないのならば、どのように、立っていることができるだろうか?」
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パウロはこう書き記している。「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると言うことができない。」23同様にヨハネはのように書いている。「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」24神の存在も、復活が実際にあるということも、キリストの神性、神の言葉としての聖書やモルモン書の正統性も、世の方法によって断定することはできない。たとえば、考古学はどの旧約聖書の預言者の存在も、いまだ確認していない。そして、考古学が、預言者が実際に生きていたという証拠をいつか提供する可能性があるとしても、その預言者が示現や啓示を受けたという主張を証明したり、反証したりすることはできないであろう。25

これと同じ原則が、モルモン書とジョセフ・スミスにも当てはまる。B・H・ロバーツはこのように書いている。「聖霊の力が、常に、モルモン書が真実だという最重要な証拠でなければならない。他の証拠はすべて補足的なものである。説得力のありそうな証拠も、どんなに立派な議論も、聖霊の力による証に取って代わることはできない。」26

2.優先すべきもの

ベンソン大管長はこのように述べた。「私たちの第一の務めは福音を宣言すること、しかもそれを効果的に行なうことである。私たちには、すべての批判に答える義務はない。最終的には、私たちの取る立場は、信仰に基づいたものとなる。」27答えることのできる疑問もあるが、答えを待たなければならないものもある。グレン・パーソンはこう書いている。「(批評家に対処するために)人が必要とするだろう適切な答えを、全て身につけておくようにするなどということは不可能である。たとえその人が今日必要とする何百もの事柄を全て学んだとしても、明日は必要とする事柄がさらに何百とあるだろう。」28すべての反モルモンの非難に答えようとすることについて、チャールズ・ペンローズはこう説明した。「それをするには、私たちはそのことに注意を集中させ過ぎて、もっと有益なことができなくなってしまう。」29ジョージ・A・スミスは、かつてこう述べている。

私たちは、何度もこのように尋ねられて来た。「なぜ、あなたがたは、自分たちについて流布されているこれらの偽りに関して、真実を発表しないのか?」
私たちが、キリスト教界で発行される新聞を全て所有していたならば、そうしたかもしれない。誰が、私や私の兄弟たちからの手紙を公にするだろうか? 誰が私たちから出る真実を公にするだろうか? そのような手紙が送られてきても、カウンターの下か、どこか他の所にしまい込まれ、それが日の目を見ることはないだろう。彼らは、たやすく私たちに関する偽りを送り出すだろう。古い格言は、「真実が扉から出て来るとき、同時にうそが鍵穴から抜け出し、1000マイル進む」と言っている。そして、私たちの経験がこれを証明している。私たちについて流布されている偽りを論破するために必要な、影響力や権力を、私たちは持っているわけではない。私たちにできることは、天に座しておられる神を信頼することである。
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3.反論は必要か?

擁護する必要のないものもある。B・H・ロバーツ長老はこう述べている。「一部の批評家は、よく『個人的な意見を述べたに過ぎない言葉』をあたかも教会の公式な教えかのように引用して、自分たちの批判を展開している。」31

長老たちが弁護する義務があるのは、教会が所有する聖典(聖書、モルモン書、教義と聖約、高価な真珠)だけである。これらの本は、神のみ言葉が載せられたものとして教会が認めているものである。これらの本は、長老たちが本国においても、また外国においても、絶対的に真実として擁護すべきものである。その他の本に関しては、非常に有用で教訓的かもしれないが、上述の4冊の本に与えられたのと同じ威厳を持つものではなく、教会の聖典に合致する範囲内においてのみ受け入れられるものである。32

たとえば、末日聖徒の批評家は、よく説教集(the Journal of Discourses)を参照するが、これは、大部分は、ユタ州外に住んでいる聖徒のために、19世紀の説教を書き記し編集したものである。しかし、そのような批評家は、説教集が末日聖徒の標準聖典の一部でないという事実はもちろん、これらの説教がなされ、(手書きで)記録された当時の状況を正しく認識していない。回復された教会の初期においては、ほとんど全ての説教は、即興で行われた。19世紀のモルモン教会では、暗記するか予め書面で準備した説教は、ほとんど考えられなかった。33初期の聖徒たちは、「みたま」によって説教をしなければならないと厳格に感じていたのである。
これは、時に興味深い説教へと導くものであった。オーソン・プラットがこう述べているように、彼、あるいはおそらく他の話者も時々、「心が完全に閉じているかのよう・・・」な時に説教をした。そのような出来事を思い出し、プラットはこう述べている。「私が会衆の前で、どもりながら言えたわずかな言葉は、私自身全く心に満足のいくものではなかったし、私の話を聞いた人々も同様の気持ちを感じたことであろう。」34
説教集の中のいくつかの事柄は、私たちが現在、福音の原則として知っているものからはかけ離れているように見られるのも不思議ではない。


4.論争を避ける

また、あなたは喜びのおとずれを告げ知らせなさい。 山々の上で、すべての高い所で、またあなたが会うのを許されるすべての民の中で、それを告げて広めなさい。また、あなたは謙遜の限りを尽くしてそれを行いなさい。わたしを信頼し、またののしる者にののしり返すことのないようにしなさい。35

まことに、まことに、あなたがたに言う。争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。見よ、互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは、わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが、わたしの教義である。36

ブルース・R・マッコンキーはこう説明している。

私たちが神から託された仕事は、聖句の意味について他の人と言い争うことではなく、喜びの福音を宣言することである。もちろん、私たちにこぞって反対する人々の偽りの主張の全てに対し、答えはある。 しかし、改宗というものは、議論の場で見出されるものではない。それは、むしろ、モロナイの勧める方法に従ってモルモン書を読む人々に起こることである。大多数の教会員にとっては、反モルモンを専門とする人々の主張は、単に無視した方が良いであろう。37

マービン・J・アシュトン長老は、「私たちは、全ての教会員に対して、反・反モルモンにならないよう奨励する。」38と書いている。アシュトン長老はこのように説明している。

非難、皮肉、中傷、あるいは偽りが、ささやかれようと、あるいは露骨に叫ばれようと、いずれにせよ、イエス・キリストの福音は、私たちが報復することも争うこともすべきでない、ということを思い出させてくれる。39

平安と憎しみは、決して同一の魂に留まることはできない。永続する平安は、自分と信条が異なる人々を非難し、評判を落し、ののしり、破壊することを目的とした個人またはグループが入って来るのを拒むものである。憎しみに生きようとする人々は、力の限り他の人々を撲滅させようとするだろう。真のキリスト教徒は、争いに時間を費やさない。私たちが他の人々をののしったり、憎んだりしているうちは、不変の平安が築かれることはない。憎しみと嘲笑と偽りを説く人々は、平和を作る人になることはできない。彼らは、悔い改めるまで、憎しみによる業に携わった人々に与えられる収穫を刈り入れるだろう。敵意と悪意という感情が、平安という感情と調和することはあり得ない。40

論争がある所に、「みたま」が留まることはできない。論争が、誰かに福音を受け入れさせることはないし、反モルモンの偽りをはねつけることもないだろう。

 

では、どのように反モルモンの主張に対処しなければならないだろうか?