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末日聖徒イエス・キリスト教会クラシクの話

 

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「死の扉」十二使徒定員会会員ラッセル・M・ネルノン、聖徒の道19927月号

(日本でのネルソン長老

地球から天の家に戻るために,私たちは,死の扉を避けては通れません。死ぬために生まれ,生きるために死ぬのが人間なのです。

ボイド・K・パッカー長老は午前の部会で「命の泉」について話してくださいましたが,私はこの午後の部会で「死の扉」についてお話ししたいと思います。どちらも人生の大切な要素です。

最近,ある友人の葬儀に出席しましたが,そこでかって同僚だったふたりの著名な外科医の兄弟と話をする機会がありました。ふたりとも美しい奥さんをすでに亡くしていました。伴侶(はんりょ)に先立たれた堪え難い喪失感に順応するという,人生最大の試練を今経験していると言っていました。このふたりのすばらしい兄弟の話では,自分たちの妹も交えて1週間に1度ずつ交替でお互いの朝食を作り合い,「死の扉」がもたらした孤独感を和らげているのだそうです。

死は人間の霊と体を引き離します。(教義と聖約8815参照)後に残された者には深い悲しみと衝撃がもたらされます。個人差はありますが,そのような痛みは確かにあります。重い扉もあれば,そうでない扉もあります。悲しみの深さは,亡くなる人の年齢にかかわりがあるかもしれません。一般に,犠牲者が若ければ若いほど,その悲しみも深いものです。しかし,たとえ死が年配者や心身の不自由だった人々に与えられた慈悲深い解放であったとしても,残された人々の悲しみは容易には()えません。人の心の願いを満たす人生の長さとは,すなわち永遠にほかならないのです。

悲 嘆

私たちは愛する人を失ったとき,その人の年齢にかかわらず,悲しみを覚えます。悲嘆は,純粋な愛の深い表現のひとつです。それは,「汝相(なんじあい)愛して共にこの世に生きよ。されば死にたる者を失いたるために涙を流し……」(教義と聖約4245)という神の戒めを(まっと)うする自然な反応なのです。

さらに,この涙の別離があるからこそ,後に起こる喜びの再会を心から感謝できるのです。人生に愛がある限り,死の悲しみは避けられないのです。

永遠の見地

永遠の見地に立てば,「人知ではとうてい測り知ることのできない」(ピリピ47)平安が得られます。ある愛する人の葬儀の席で,予言者ジョセフ・ズミスは次のような勧告を残しました。「心に頼む愛する親しい友を失ったとき,私たちはそれをひとつの警告にすべきである。……私たちの愛情は,目の前の友人以上に,神とそのみ業に注がなければならない。」(「予言者ジョセフ・スミスの教え」p.216)

人生は誕生によって始まるのでも,死によって終わるのでもありません。誕生に先立ち,私たちは霊の子として天父と共に住んでいました。そこで私たちは,地球に行き,肉体を得る日を待ち焦がれていました。自由意志を行使し,選択の結果に責任を持つという危険な運命を承知の上です。「この世の生涯は試しの時期となり,神に()う用意をする時期となり」ました。(アルマ1224)しかし私たちは,現在もそうであるように,神のみもとに再び戻ることを,長い間待ち望んだこの旅の最高の喜びと考えたのです。私たちは,どんな旅でも,出発する前に往復切符を何とか手に入れようとするのではないでしょうか。地球から天の家に戻るために,私たちは,死の扉を避けては通れません。死ぬために生まれ,生きるために死ぬのが人間なのです。(IIコリント69参照)神の子である私たちは,地球で成長し始めたばかりなのです。花を開かせる所は,天なのです。

肉体の死

伝道の書の著者は,こう書き記しています。「(あめ)が下のすべての事には季節があり,すべてのわざには時がある。生るるに時があり,死ぬるに時があり……。」(伝道31-2。アルマ1227参照)

考えてもみてください。この地上に生を受けた690億の人々が,今もなお生きていたとしたら,どんな交通渋滞が起こるでしょうか。現実として何も所有ができず,どんな決定に対してもほとんど責任が取れなくなるでしょう。

幸福の計画

聖典は,死が幸福の欠かせない要素であると教えています。「その時すぐに人を肉体の死から救うのは,人に幸福を与える偉大な計画を破壊してこれを無効にするのであるからその必要がなかった。」(アルマ428,下線付加。II二一ファイ96参照)

天に戻る者のために死の扉が開かれ,幕の向こう側で死者の再会を()の当たりにすることができるならば,私たちの限られた視野は広がるでしょう。詩篇の著者はそのような示現を見て,次のように書き残しています。「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩篇11615)

霊の死

しかし,聖典によると霊の死というもうひとつの死のあることがわかります。(II二一ファイ912;アルマ1216;429;ヒラマン141618参照)「霊の死とは霊的に神から離れている状態を言い」ます。(ジョセフ・フィールディング・スミス「救いの教義」ブルース・R・マッコンキー編,全3巻,2200)したがって,肉体的には生きている者が,霊的には死んでいることもあり得るのです。

霊の死とは,物質的なものに比重を置きすぎている,ということでもあります。パウロはローマ人にこの概念を解き明かしました。「なぜなら,もし,肉に従って生きるなら,あなたがたは死ぬ(ほか)はないからである。しかし,霊によってからだの働きを殺すなら,あなたがたは生きるであろう。」(ローマ813)

道徳的な誤ちを正す前に肉体の死が訪れると,悔い改めの機会を失います。したがって,「死の〔本当の〕とげは罪」(1コリント1556)なのです。

救い主も,私たちを罪があるままではお救いになれません。主は私たちを罪から救われますが,それには悔い改めという条件が伴います。霊の生死は,私たち自身の責任なのです。(ローマ813-14;ヒラマン1418;教義と聖約2941-45参照

試練に立ち向かう

肉体的,また霊的な試練は人生にあってやむことがありません。それは私たち一人一人が経験によって知るところです。たとえば,晩年を迎え,いっ終わるとも知れない艱難(かんなん)の日々を送っている人も多いでしょう。「最後まで耐え忍ぶ」という神の戒めの持つ意味を,皆さんはよく知っています。(マタイ2413;マルコ1313;1二一フアイ1337;2231;II二一ファイ3116;334。オムナイ126;III二一ファイ159;教義と聖約147;1822;248参照)

世の救い主は,日々の生活で主を模範とするよう繰り返し勧めておられます。(ヨハネ1315;146;1ペテロ221;II二一ファイ31916;lII二一ファイ1816;2727参照)ですから,私たちも主と同じように,試練を耐え忍ばなければなりません。

「彼は御子(みこ)であられたにもかかわらず,さまざまの苦しみによって従順を学」ばれた(ヘブル58)のです。大きな試練を経験すると,そこから良きものを刈り取ることができます。シェークスピアは次のように記しています。

「逆境ほど身のためになるものはない,

それはあたかも蟾蜍蛙(ひきがえる)のように醜く,

毒を含んではいるが,

頭の中には貴重な宝石を

宿しているのだ。」

(「お気に召すまま」第2幕第1場,福田恒存訳,新潮文庫199122刷,p.38)

救い主はそれをもっと率直に表現しておられます。「多くの難難の後に祝きた

福は来る。」(教義と聖約584)

来世

現世の生涯はつかのまであり,「死の扉」により終わりを告げます。後に残された人々の心には次のような疑問がわき起こります。「私の愛する人は今どこにいるのだろう。」「死後の世界はどうなっているのだろう。」私たちの知識では十分な解答の得られないことが多いのですが,それでも知らされていることもたくさんあります。

パラダイス

死後最初に行く場所は,「パラダイス」と呼ばれる所です。アルマは次のように書き残しています。「さて死んでからよみがえる時までの霊の有様はどうであるかと言うに,ごらん,あらゆる人の霊は……,この死ななくてはならぬ肉体を離れるとその霊に生命(いのち)を与えたもうた神のところへ帰るのである。これは天使が私にお示しになった。それから(ただ)しい人の霊はパラダイスととなえる幸福な有様,すなわち安息と平和な有様に入り一切のわずらいと憂いと悲しみとを離れて(やす)む。」(アルマ4011-12)

復活と不死不滅

ある人々は,面白半分に「死後は何もないさ」と言いますが,それは真実ではありません。肉体の死は一時的に人を捕らえるだけです。それはアダムの堕落により始まり,イエス・キリストの贖罪(しょくざい)により終わりました。パラダイスで待つ期間もまた一時的なものです。復活により終わりを告げるからです。モルモン経から次のことがわかります。「神のパラダイスは義人の霊を放ち,墓は義人の体を放たなければならない。そこで,その霊と体とはまたもとの通り一しょになる。ここですべての人間は不朽で不死不滅の者となり,しかもかれらは生ける人であ……る。」(II二一ファイ913)

数年前,私たちのステーキ部のステーキ部長夫妻は,青春のさなかにあった息子を,交通事故で亡くしました。傷ついた彼の肉体は法則に従って死を被りましたが,復活の時には主がまさにその同じ永遠の法則を行使されて,彼の肉体は「元の自然の完全な身体(しんたい)のものにかえ」る(アルマ40231142-45参照)のです。私たちはこの知識により,慰めを受けています。

最初に主が私たちを創造されました。当然,再生させる力もお持ちです。主の命令の下に,私たちの体に必要な諸要素が,現在と同じような状態で再び組織されるのです。細胞の一つ一つにある独自の遺伝子が,現在と同じ配列で絡み合い,新しい体を形成するのです。復活の奇跡は,初めに起こった創造の奇跡にまさるとも劣らない,偉大な奇跡なのです。

裁き

復活は終わりではなく,新たな始まりです。それは次のように語られた主による裁きへの準備となります。「人がわれを十字架に上げたる故に,今度は御父が世の中の人を必ずひき上げて,これを各々の行いの善悪に応じて裁判するためにわが前に立たせたもう。」(III二一ファイ2714)

永遠の法廷の入り口に近づかなくても,どなたがその法廷を管理されるのか,私たちはあらかじめ知っています。「その門を守る者はイスラエルの聖者であって,ここには下僕をお使いにならない。そしてこのほかには一つも通る所がないからこの門から入るほかはない。しかし,門を守る者が主なる神であるから,人はこれを欺むくことができない。

そして,門を(たた)く者には(たれ)にでもこれを開きたもう……。」(II二一ファイ941-42)

家族のきずな

愛のきずなは死の扉と裁きを越えて存続します。家族のきずなは神殿の結び固めのおかげで永遠に続くのです。その重要性は語り尽くすことができません。

ある小さなプロペラ機に搭乗した時の経験を,鮮やかに思い出します。エンジンのひとつが突然爆発し,火を吹いたのです。火を吹いた方のエンジンのプロペラは,止まってしまいました。ぐるぐると急旋回しながら逆さまに墜落しているさなか,私は死を覚悟しました。乗客の中には,パニック状態になり,絶叫する人もいました。奇跡的にも,この急激な落下のおかげで火が消えました。そして,もう一方のエンジンを始動させることで,パイロットは飛行機を安定させ,無事着陸できたのです。

その試練のさなか,死が真近に迫っていることを「悟った」にもかかわらず,私の心を占めていたのは,死は恐ろしいものではないという思いでした。自分が神殿で儀式を執り行なったあの先祖の人々と会うために帰るのだ,と感じたことを覚えています。愛する妻と,また,誓約の下に生まれ育った子供たちと永遠に結ばれていることを,心から深く感謝しました。私の行なった最も大切な事柄は,神殿結婚であったことを悟りました。人により与えられた名誉も,主の宮居(みやい)で行なわれた結び固めのもたらす内なる安らぎの前では,色あせて見えたのです。

ほんの23分の恐ろしい体験ではありましたが,私の今までの人生がすべて頭をよぎりました。死に直面し,一瞬のうちに過去を思い起こすのですから,聖典に約束されているように,裁きに直面した人はその過去を必ずや「全く……みな思い出〔す〕」ことでしょう。(アルマ5181143参照)

永遠の生

命裁きの後にもたらされるのが永遠の生命への可能性です。永遠の生命とは,天父の送っておられるような生活です。天父の住んでおられる日の光栄の王国は,太陽の輝きにたとえられます。

(1コリント1541。教義と聖約7696参照)それは備えのできた者すべてに与えられます。その条件ははっきりと啓示されています。「あなたたちはこれからもキリストを確く信じて疑わず,完全な希望の光を抱き,神とすべての人とを愛して強く進まなければならない。それであるから,この後もたえずキリストの言葉をよく味わいながら強く進み,終りまで堪え忍ぶならば,『永遠の生命を受ける』,かくの(ごと)く天の御父が言いたもうた。」(II二一ファイ3120。ヨハネ173参照)

準備の時期

現世にとどまっている私たちには,「神に()う用意を」する(アルマ3432)貴重な時間がわずかに残されているだけです。私たちにとって最悪の仕事とは,完了していない仕事です。常に引き延ばしをしている人は,賢明な準備を始めなければなりません。現在,私たちにはまだ少し時間が残されています。この貴重な時間を用いてほかの人々に祝福を与えましょう。もっと親切で,同情心に富み,感謝するに早く,怒るに遅く,寛大な気持ちで分かち合い,喜んで人に心遣いを示しましょう。

そうするならば,死の扉を通り抜ける順番が訪れた時に,私たちはパウロのように,「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした」(IIテモテ46-7)と言うことができるのです。

死を敵視する必要はありません。十分な理解と準備があれば,信仰が恐れに取って代わります。希望が絶望に打ち勝つのです。主は,「この(ゆえ)に死に至るまでも(おそ)るるなかれ。この世の中にては汝の喜びは満たされざれども,われに(おい)て汝の喜び満たさるればなり」(教義と聖約10136)と言われました。そして次の祝福も与えてくださいました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」(ヨハネ1427)

イエス・キリストの特別な証人として,私は主が実に生きたもうことを証します。また死の幕がとても薄いことを証します。すでにこの世を去った人々が,教会の指導者にとり,決して見知らぬ人ではないことを,極めて神聖な数々の経験によって私は知っています。私たちにとって愛する人々は,ちょうど隣室にいるようなもので,死の扉で隔てられているだけにすぎないのです。

そのような確信をもって,兄弟姉妹の皆さん,人生を愛そうではありませんか!一刻一刻を神の祝福として大切に享受しましょう。(モーサヤ221参照)立派に,最善を尽くして人生を送りましょう。そうすれば,死を予期して心が暗くなることは決してありません。主の助けにより,皆さんの行ないと望みが,いつもまでも尽きることのない喜びと栄光,不死不滅と永遠の生命を受けるにふさわしいものとなりますようにイエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

Doors of Death, by Elder Russell M. Nelson  Of the Quorum of the Twelve Apostles

April 1992 General Conference. 

This morning Elder Boyd K. Packer spoke of the “fountains of life.” This afternoon, I should like to speak of the “doors of death.” Both are crucial components of life.

Recently at the funeral of a friend, I visited with two distinguished brothers—former surgical colleagues of mine—whose lovely companions had both passed away. They said they were going through the most difficult period of their lives, adjusting to the almost unbearable loss of their partners. These wonderful men then told of their cooking breakfast for each other once a week—sharing that rotation with their sister—trying to lessen their loneliness imposed by the doors of death.

Death separates “the spirit and the body [which] are the soul of man.” (D&C 88:15.) That separation evokes pangs of sorrow and shock among those left behind. The hurt is real. Only its intensity varies. Some doors are heavier than others. The sense of tragedy may be related to age. Generally the younger the victim, the greater the grief. Yet even when the elderly or infirm have been afforded merciful relief, their loved ones are rarely ready to let go. The only length of life that seems to satisfy the longings of the human heart is life everlasting.

Mourning

Irrespective of age, we mourn for those loved and lost. Mourning is one of the deepest expressions of pure love. It is a natural response in complete accord with divine commandment: “Thou shalt live together in love, insomuch that thou shalt weep for the loss of them that die.” (D&C 42:45.)

Moreover, we can’t fully appreciate joyful reunions later without tearful separations now. The only way to take sorrow out of death is to take love out of life.

Eternal Perspective

Eternal perspective provides peace “which passeth all understanding.” (Philip. 4:7.) In speaking at a funeral of a loved one, the Prophet Joseph Smith offered this admonition: “When we lose a near and dear friend, upon whom we have set our hearts, it should be a caution unto us. … Our affections should be placed upon God and His work, more intensely than upon our fellow beings.” (Teachings of the Prophet Joseph Smith, p. 216.)

Life does not begin with birth, nor does it end with death. Prior to our birth, we dwelled as spirit children with our Father in Heaven. There we eagerly anticipated the possibility of coming to earth and obtaining a physical body. Knowingly we wanted the risks of mortality, which would allow the exercise of agency and accountability. “This life [was to become] a probationary state; a time to prepare to meet God.” (Alma 12:24.) But we regarded the returning home as the best part of that long-awaited trip, just as we do now. Before embarking on any journey, we like to have some assurance of a round-trip ticket. Returning from earth to life in our heavenly home requires passage through—and not around—the doors of death. We were born to die, and we die to live. (See 2 Cor. 6:9.) As seedlings of God, we barely blossom on earth; we fully flower in heaven.

Physical Death

The writer of Ecclesiastes said, “To every thing there is a season, and a time to every purpose under the heaven:

“A time to be born, and a time to die.” (Eccl. 3:1–2; see also Alma 12:27.)

Think of the alternative. If all sixty-nine billion people who have ever lived on earth were still here, imagine the traffic jam! And we could own virtually nothing and scarcely make any responsible decisions.

Plan of Happiness

Scriptures teach that death is essential to happiness: “Now behold, it was not expedient that man should be reclaimed from this temporal death, for that would destroy the great plan of happiness.” (Alma 42:8; italics added; see also 2 Ne. 9:6.)

Our limited perspective would be enlarged if we could witness the reunion on the other side of the veil, when doors of death open to those returning home. Such was the vision of the psalmist who wrote, “Precious in the sight of the Lord is the death of his saints.” (Ps. 116:15.)

Spiritual Death

But there is another type of separation known in scripture as spiritual death. (See 2 Ne. 9:12Alma 12:16Alma 42:9Hel. 14:16, 18.) It “is defined as a state of spiritual alienation from God.” (Joseph Fielding Smith,Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie, 3 vols., Salt Lake City: Bookcraft, 1954–56, 2:217.) Thus, one can be very much alive physically but dead spiritually.

Spiritual death is more likely when goals are unbalanced toward things physical. Paul explained this concept to the Romans: “If ye live after the flesh, ye shall die: but if ye through the Spirit do mortify the deeds of the body, ye shall live.” (Rom. 8:13.)

If physical death should strike before moral wrongs have been made right, opportunity for repentance will have been forfeited. Thus, “the [real] sting of death is sin.” (1 Cor. 15:56.)

Even the Savior cannot save us in our sins. He will redeem us from our sins, but only upon condition of our repentance. We are responsible for our own spiritual survival or death. (See Rom. 8:13–14Hel. 14:18D&C 29:41–45.)

Coping with Trials

Physical and spiritual trials provide continuing challenges in life. Each of you could provide illustrations from personal experience. Many of you, for instance, are at the twilight of life and endure long and difficult days. You know well the meaning of that divine injunction to “endure to the end.” (See Matt. 24:13Mark 13:131 Ne. 13:371 Ne. 22:312 Ne. 31:162 Ne. 33:4Omni 1:263 Ne. 15:9D&C 14:7D&C 18:22D&C 24:8.)

The Savior of the world repeatedly asked that we pattern our lives after His. (See John 13:15John 14:61 Pet. 2:212 Ne. 31:9, 163 Ne. 18:163 Ne. 27:27.) So we must endure trials—as did He. “Though he were a Son, yet learned he obedience by the things which he suffered.” (Heb. 5:8.)

When hardship heaps its heavy load upon us, good may yet be gleaned. Shakespeare so wrote:

Sweet are the uses of adversity,

Which like the toad, ugly and venomous,

Wears yet a precious jewel in his head.

(As You Like It, act 2, scene 1.)

The Lord’s expression is even more explicit: “After much tribulation come the blessings.” (D&C 58:4.)

Postmortal Life

Mortality, temporary as it is, is terminated by the doors of death. Questions then come to searching minds of those left behind. “Where is my loved one now?” “What happens after death?” While many questions cannot be fully answered with available knowledge, much is known.

Paradise

The first station in postmortal life is named paradise. Alma wrote: “Concerning the state of the soul between death and the resurrection—Behold, it has been made known unto me … that the spirits of all men, as soon as they are departed from this mortal body, … are taken home to that God who gave them life. …

“The spirits of those who are righteous are received into a state of happiness, which is called paradise, a state of rest, a state of peace.” (Alma 40:11–12.)

Resurrection and Immortality

Some facetiously state that nothing is as permanent as death. Not so! The grip of physical death is temporary. It began with the fall of Adam; it ended with the atonement of Jesus the Christ. The waiting period in paradise is temporary, too. It ends with the resurrection. From the Book of Mormon we learn that the “paradise of God must deliver up the spirits of the righteous, and the grave deliver up the body of the righteous; and the spirit and the body is restored to itself again, and all men become incorruptible, and immortal, and they are living souls.” (2 Ne. 9:13.)

A few years ago, our stake president and his wife had a wonderful son taken in his youthful prime because of an automobile accident. We are consoled by the knowledge that the very laws that could not allow his broken body to survive here are the same eternal laws which the Lord will employ at the time of the Resurrection, when that body “shall be restored to [its] proper and perfect frame.” (Alma 40:23; see also Alma 11:42–45.)

The Lord who created us in the first place surely has power to do it again. The same necessary elements now in our bodies will still be available—at His command. The same unique genetic code now embedded in each of our living cells will still be available to format new ones then. The miracle of the resurrection, wondrous as it will be, is marvelously matched by the miracle of our creation in the first place.

Judgment

Our resurrection will not be an end but a new beginning. It will prepare us for judgment by the Lord, who said, “As I have been lifted up [upon the cross] by men even so should men be lifted up by the Father, to stand before me, to be judged of their works.” (3 Ne. 27:14.)

Even before we approach that threshold of the eternal court of justice, we know who will personally preside: “The keeper of the gate is the Holy One of Israel; and he employeth no servant there; and there is none other way save it be by the gate; for he cannot be deceived, for the Lord God is his name.

“And whoso knocketh, to him will he open.” (2 Ne. 9:41–42.)

Family Ties

Loving relationships continue beyond the doors of death and judgment. Family ties endure because of sealings in the temple. Their importance cannot be overstated.

I remember vividly an experience I had as a passenger in a small two-propeller airplane. One of its engines suddenly burst open and caught on fire. The propeller of the flaming engine was starkly stilled. As we plummeted in a steep spiral dive toward the earth, I expected to die. Some of the passengers screamed in hysterical panic. Miraculously, the precipitous dive extinguished the flames. Then, by starting up the other engine, the pilot was able to stabilize the plane and bring us down safely.

Throughout that ordeal, though I “knew” death was coming, my paramount feeling was that I was not afraid to die. I remember a sense of returning home to meet ancestors for whom I had done temple work. I remember my deep sense of gratitude that my sweetheart and I had been sealed eternally to each other and to our children, born and reared in the covenant. I realized that our marriage in the temple was my most important accomplishment. Honors bestowed upon me by men could not approach the inner peace provided by sealings performed in the house of the Lord.

That harrowing experience consumed but a few minutes, yet my entire life flashed before my mind. Having had such rapid recall when facing death, I do not doubt the scriptural promise of “perfect remembrance” when facing judgment. (Alma 5:18; see also Alma 11:43.)

Eternal Life

After judgment comes the possibility of eternal life—the kind of life that our Heavenly Father lives. His celestial realm has been compared with the glory of the sun. (See 1 Cor. 15:41D&C 76:96.) It is available to all who prepare for it, the requirements of which have been clearly revealed: “Ye must press forward with a steadfastness in Christ, having a perfect brightness of hope, and a love of God and of all men. Wherefore, if ye shall press forward, feasting upon the word of Christ, and endure to the end, behold, thus saith the Father: Ye shall have eternal life.” (2 Ne. 31:20; see also John 17:3.)

Time to Prepare

Meanwhile, we who tarry here have a few precious moments remaining “to prepare to meet God.” (Alma 34:32.) Unfinished business is our worst business. Perpetual procrastination must yield to perceptive preparation. Today we have a little more time to bless others—time to be kinder, more compassionate, quicker to thank and slower to scold, more generous in sharing, more gracious in caring.

Then when our turn comes to pass through the doors of death, we can say as did Paul: “The time of my departure is at hand. I have fought a good fight, I have finished my course, I have kept the faith.” (2 Tim. 4:6–7.)

We need not look upon death as an enemy. With full understanding and preparation, faith supplants fear. Hope displaces despair. The Lord said, “Fear not even unto death; for in this world your joy is not full, but in me your joy is full.” (D&C 101:36.) He bestowed this gift: “Peace I leave with you, my peace I give unto you: not as the world giveth, give I unto you. Let not your heart be troubled, neither let it be afraid.” (John 14:27.)

As a special witness of Jesus Christ, I testify that He lives! I also testify that the veil of death is very thin. I know by experiences too sacred to relate that those who have gone before are not strangers to leaders of this Church. To us and to you, our loved ones may be just as close as the next room—separated only by the doors of death.

With that assurance, brothers and sisters, love life! Cherish each moment as a blessing from God. (See Mosiah 2:21.) Live it well—even to your loftiest potential. Then the anticipation of death shall not hold you hostage. With the help of the Lord, your deeds and desires will qualify you to receive everlasting joy, glory, immortality, and eternal lives. For this I pray in the name of Jesus Christ, amen.