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「心の叫びに耳を傾けて」七十人アドニー・Y・小松長老聖徒の道19927月号、33

 一時的に公式の教会活動が制限されている人たちも,社交的な活動に参加して,人々から歓迎され,愛を感じることができます。

兄弟姉妹の皆さん,きょうは皆さんに,198512月に大管長会から出された次のような呼びかけの言葉に思いをはせていただきたいと思います。

「私たちはこのクリスマスの季節に当たり,神の御子,主イエス・キリストを(かしら)にいただくこの教会に籍を置き,また活発に集うことによって受けている祝福を喜びたいと思います。全世界の兄弟姉妹に,心から私たちの愛と感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

教会の中には活発でない人や,ほかの人に対して批判的な目を向け,あら探しをする人,また重大な罪によって会員資格の制限や破門などの処分を受けている人もいます。

私たちはそのようなすべての人々に向かって手を差し伸べ,『主なるわれは,その(ゆる)さんと欲する者を赦す。されど(なんじ)らにはすべての人を赦すことを求めらる』(教義と聖約6410)という主の精神をもって赦しを与えたいと思います。

私たちは教会員に対して,自分に罪を犯した人々を赦すように勧告します。また教会に活発でなくなり,ほかの人々に対して批判的になっている人々には,『立ち返りなさい。そして主が備えられたテーブルにつき,聖徒の交わりという甘く,心を満たしてくれる木の実を再び味わいなさい』と呼びかけるものです。(『教会から遠のいている人々への呼びかけ』「チャーチニューズ」19851222日付)

教会の多くの人々は活動を単なる娯楽と思いがちですが,教会の活動にはそうした浅い認識以上の役割があるのです。教会の宗紀処分を受けた人にとって,孤独と寂しさは堪え難い現実です。それは,処分が公式なものでも非公式なものでも同じです。この処分が破門ともなれば,その孤独と寂しさは単なる感情以上のものとなります。なぜなら破門はその人の名が教会員記録から抹消され,しかもバプテスマの時に按手(あんしゅ)(れい)によって授けられた聖霊の(たまもの)が取り上げられることを意味するからです。

ほとんどの人は人生で孤独や寂しさを経験するものです。町の中や空港,駅のような場所で何百何千の人々に囲まれながらも孤独を感じたことはないでしょうか。子供のころや10代のころ,そして大人になってからも,家族の中でいさかいがあったときには,たとえ同じ屋根の下で暮らしていても孤独を感じたことがなかったでしょうか。教会や学校で人々に囲まれていながら,寂しさと孤独を感じたことはないでしようか。

どのような状況であれ,人が物理的に近くにいるということが,人に受け入れられ,理解され,フェローシップを受けていると感じることに必ずしも結びつかないことは確かです。むしろ逆の場合も多いのではないでしょうか。仲間として受け入れられていると感じるのは,友情をもって活動の輪に招き入れられたときです。活動は単なる娯楽やゲームの域を越えて,気楽に人を受け入れ,友情の輪に入れ,理解を示し,フェローシップをする良い機会を提供してくれます。このような観点から見れば,活動は真の愛と親切,赦し,奉仕,排斥せずに受け入れることを示す良い方法のひとつとなります。アミュレクは「それであるから,もし忘れずに慈善を行わないならば,あなたたちは金銀を精製する人たちに(価がなすいから)棄てられて,人の足で踏まれる鉄かすのような者である」(アルマ3429)と言いました。

一時的に公式の教会活動が制限されている人たちも,社交的な活動に参加して,人々から歓迎され,愛を感じることができます。家庭の夕べ,夕食会,パーティー,ファイヤサイド,ロードショー,演劇,同好会,ホームメーキング,家族の野外活動,ワード部キャンプ,同窓会などの様々な活動に温かく迎え入れられれば,つらい時期の慰めとなることでしょう。

人々は活動を通して,自分が仲間のひとりであり,求められ,必要とされていると感じるのです。教会の活動に参加することによって,定員会や扶助協会,そしてワード部の会員と対等に交わることもできます。そして,社交的な活動に共に集いフェローシップを受けることは,つらい時期の慰めになるとともに,安息日の礼拝に出席するためのステップともなります。彼らは時期が来るまで礼拝にもレッスンにも正会員としての参加はできないからです。

いくつかの重要な点について考えてみましょう。あなたの家族,神権定員会,扶助協会,ユニットにおいて活動は必要不可欠なものでしょうか。また活動は正会員の資格を取り戻そうと努力している人や,あまり活発でない人を考慮に入れて定期的に計画され,実施されているでしょうか。皆さんの活動は兄弟愛や姉妹愛をはぐくみ,だれもが居場所を見つけられるものとなっているでしょうか。皆さんは,信仰と証を取り戻し,正会員としての特権と祝福に再びあずかりたいと努力している人々に助けの手を差し伸べているでしょうか。

私たちは家族,神権定員会,扶助協会,あるいはワード部やステーキ部の活動を通して,次のようなことができます。

1. 世の中にはびこっている粗悪で官能的な活動を排し,健全な娯楽の場を提供する。

2. 年齢,社会的地位,教会の責任に関係なく,個人やグループを率先して教会の輪の中に招く。

3. 活発会員,お休み会員,そして正会員に戻ろうと努力を続けている人に等しく参加の機会を与える。

4. 心を開いて,愛とぬくもりを伝え合い,過去の過ちを赦し,忘れる。赦して忘れることを実行しない人に対して,主はこのように警告しておられます。「(いにし)えわが弟子たちにして陥入(おとしい)れんとする(おり)をねらい心中互いに(あい)赦すことなき者ありたるが,彼らはこの悪のために苦しみまた(はなはだ)しき(こら)しめを(こうむ)りしなり。

この(ゆえ)にわれ汝らに告ぐ,汝ら互いに赦し合うべきなり。そは,人その兄弟の過ちを赦さざれば,その人主の前に罪に値する故にして,そは(さら)に大いなる罪なお彼に()ればなり。」(教義と聖約648-9)

気にかけてくれる人々の愛と思いやりと赦しの結果,人が晴れて正会員となって教会に戻って来たときの喜びは筆舌に尽くし難いものです。この喜びの深さはモルモン経の中でアルマとアンモンの再会の喜びの表現に見ることができます。

「アンモンは胸一ぱいに喜びが(あふ)れ,また神の恩恵(めぐみ)にすっかり感じ入って,その身の力さえもなくなるほどとなりそのためにまた地に倒れた。これはまことに非常な喜びではないか。ごらん,これはまことに心をこめて悔い改め,へりくだって幸福を求める者でなくては受けない喜びである。」(アルマ2717-18)

活動は単なる娯楽や一時の楽しみ以上のものになり得るのです。活動は参加者が完全になるように助けるという目的の下に熱心に計画され実施されるならば,尽きることのない喜びをもたらし,教会にあって重要な位置を占めるようになります。

教会主催の活動は目新しいものでないことを心に留めてください。近代の13人の予言者が管理したどの時代にも,活動は末日聖徒の生活の中で重要な部分を占めてきました。今後も教会の活動は,排斥するよりも受け入れること,観客であるよりも参加者であること,逆境にあっても喜びのひと時を見いだすこと,孤独と不調和よりも交わりと一致を奨励すること,そして正会員の資格の回復に向けて努力している人が完全に神の家族に戻るうえで助けとなるような,平等で寛容な社交の場とすることに重点が置かれていくでしょう。

最後に,もう一度大管長会のメッセージを引用したいと思います。「私たちは,戻りたいと望みながらも,きまり悪さを感じてそうできないでいる人々が多くいると確信しています。しかし,そのような人々に申しあげたいと思います。私たちは両手を広げて皆さんを歓迎し,喜んでお助けしたいと願っているのです。

クリスマスは,全人類の罪のためにご自身の命を(ささ)げられた主の降誕を祝う時です。罪と苦しみの重荷を負っている人々は数多くいますが,そのような人々に対してこう申しあげます。「重荷を下ろし,主のみ言葉に従いなさい。『すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。』(マタイ1128-30)

大管長会はさらに次のような言葉を記しています。「これらのことを皆さんにお願いしたいと思います。私たちも皆さんのために祈っています。愛と感謝の念をもって皆さんをお迎えしたいと思います。大管長会」(『教会から遠のいている人々への呼びかけ』「チャーチニューズ」19851222日付)

皆さんがキリストのみもとに来られますように。どうぞ戻って主の喜びにあずかってください。

イエス・キリストのみ名により申しあげます。アーメン。

Please Hear the Call!” Adney Y. Komatsu, April 1992 General Conference

My brothers and sisters, I would like to recall to your minds the statement of invitation made by the First Presidency in December of 1985, and I quote:

“At this Christmas season we rejoice in the blessings that come of membership and activity in this Church whose head is the Son of God, the Lord Jesus Christ. In deep sincerity we express our love and gratitude for our brethren and sisters everywhere.

“We are aware of some who are inactive, of others who have become critical and are prone to find fault, and of those who have been disfellowshipped or excommunicated because of serious transgressions.

“To all such we reach out in love. We are anxious to forgive in the spirit of Him who said: ‘I, the Lord, will forgive whom I will forgive, but of you it is required to forgive all men.’ (D&C 64:10.)

“We encourage Church members to forgive those who may have wronged them. To those who have ceased activity and to those who have become critical, we say, ‘Come back. Come back and feast at the table of the Lord, and taste again the sweet and satisfying fruits of fellowship with the saints.’” (“An Invitation to Come Back,” Church News, 22 Dec. 1985, p. 3; italics added.)

While most of us in the Church may think of activities as primarily fun and games, there is a part that activities play in the Church that reaches far beyond this shallow perception.

For those who have experienced Church discipline, feelings of isolation and loneliness are very real. This is the case whether the discipline is informal or formal. In the case of formal excommunication, the isolation and loneliness are more than a feeling. This action results in a person’s name being removed from the Church membership records and the withdrawal of the gift of the Holy Ghost given at the time of baptism and confirmation.

Most of us have experienced times of isolation and loneliness in our lives. Have you ever been in a city, airport, train station, or the like and, while surrounded by hundreds or even thousands of people, yet felt alone? Have you on occasion, when uniquely challenged in your family as a child, a teen, or even an adult, felt alone while living with your family under the same roof? Have you on other occasions felt alone and lonely even while sitting among others in a Church meeting or a school class?

The fact that people are physically nearby, regardless of the setting, does not always equate to feelings of acceptance, understanding, inclusion, and fellowship. In too many cases, the reverse may be true. Feelings of acceptance and inclusion come when someone invites us into their circle of friendship and activity. Far beyond fun and games, activities represent at least one nonthreatening way to accept, include, understand, and fellowship others. Perceived in this manner, activities become another vehicle to show charity, love, kindness, forgiveness, service, and to include and not exclude. Amulek said, “If ye do not remember to be charitable, ye are as dross, which the refiners do cast out, (it being of no worth).” (Alma 34:29.)

Those whose formal Church participation may be limited for a season can experience the warmth of loving arms and open hearts as they are invited to participate in activities in the Church. Their season of limitation is softened as they are warmly included in family home evenings, dinners, socials, firesides, roadshows, dramas, interest groups, homemaking activities, family outings, ward camps, reunions, and the like.

Through activities, individuals can sense a feeling of being included, wanted, and needed. Participating in Church activities provides opportunities to associate with members of the quorum, Relief Society, or ward on neutral grounds. Again, their season of limitation can be softened as they are fellowshipped and included socially in activities. Their participation in activities is often the forerunner to their participation in meetings of worship on the Sabbath, even though for a time they must participate in worship and teaching settings as spectators.

Some critical issues are:

Are activities an integral part of your family, your quorum, Relief Society, or Church unit?

Are activities planned and conducted on a regular basis that include those working their way back into full fellowship and those who are less active in the fold?

Do your activities represent safe harbors of acceptance, brotherhood, and sisterhood?

Are you helping those who are struggling to recapture their faith and testimony look forward to the day when their privilege and blessings to participate fully in Church might be reinstated?

Through a variety of family, priesthood, Relief Society, or ward and stake activities, we can create a setting that—

1.  Helps all of us participate in wholesome activities that should be free from the sensuality and coarseness of many activities offered and promoted by the world.

2. Places a premium on including rather than excluding individuals and groups, regardless of age, station in life, Church callings, etc.

3. Offers opportunities for participation to the active, those who are less active, and those who are winning their way back to full fellowship.

4. Displays forgiveness and forgetting as individuals feel the warmth and concern of loving arms and open hearts. When we do not forgive and forget, the Lord warns: “My disciples, in days of old, sought occasion against one another and forgave not one another in their hearts; … for this evil they were afflicted and sorely chastened.

“Wherefore, I say unto you, that ye ought to forgive one another; for he that forgiveth not his brother his trespasses standeth condemned before the Lord; for there remaineth in him the greater sin.” (D&C 64:8–9.)

When a person returns to full fellowship in the Church as a result of love, kindness, and forgiveness from those who care, the feeling of joy is almost inexpressible. This depth of joy is described in the Book of Mormonwhen Alma met Ammon in a joyful meeting:

“Now the joy of Ammon was so great even that he was full; yea, he was swallowed up in the joy of his God, even to the exhausting of his strength; and he fell again to the earth.

“Now was not this exceeding joy? Behold, this is joy which none receiveth save it be the truly penitent and humble seeker of happiness.” (Alma 27:17–18.)

Activities can be so much more than fun and games, and so much more than momentary pleasure. Activities planned with purpose and carried out with real efforts aimed at helping participants on their path to perfection bring joy everlasting and occupy an important place in the Church.

We need to be reminded that activities sponsored by the Church are not new. In each administration of the thirteen modern-day prophets who have presided over the Church, activities have been an important part of the Latter-day Saint way of life. Church activities continue to be one means to include rather than exclude, to be a participant rather than a spectator, to find moments of joy among challenges of adversity, to promote socialization and unity rather than isolation and disharmony, to offer neutral and nonjudgmental circumstances for those who are winning their way back to full fellowship in the Church with the Saints and household of God.

In closing, I would like to continue quoting from the First Presidency’s Christmas message: “We are confident that many have longed to return, but have felt awkward about doing so. We assure you that you will find open arms to receive you and willing hands to assist you.

“This is the Christmas season when we honor the birth of the Lord who gave His life for the sins of all. We know there are many who carry heavy burdens of guilt and bitterness. To such we say, ‘Set them aside and give heed to the words of the Savior: “Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest. … For my yoke is easy, and my burden is light.”’” (Matt. 11:28–30.)

The First Presidency continues by saying:

“We plead with you. We pray for you. We invite and welcome you with love and appreciation.

“Sincerely your brethren, The First Presidency.” (“An Invitation to Come Back,” p. 3.)

May I invite all to come unto Christ. Come back, and partake of His joy. In the name of Jesus Christ, amen.