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モルモン

とは?

What of the

Mormons?

 

真理を愛しているの皆様へ

 

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From MormonScholarsTestify.com (See the English below.)

 

トーステン・リッツ

わたしは自然科学者として,これまで語られてきた多くの証に何が付け加えられるだろうかと思いめぐらしたとき,自分がどのような証を持っているかだけでなく,どのようにして証を得たかについて紹介することが役立つのではないかと考えました。わたしの信仰は,特定の事実や一連の事実というよりも,長年積み上げてきた過程を通して真理を受け入れるようになったと言えます。神から霊感と啓示を受けることが可能であって,それを継続できることを証します。この方法は真理を見いだしたいと思っているすべての人に有効であると確信しています。物理学と生物科学を研究する科学者として,わたしは自分が活発で,信仰厚いモルモンであり,いずれの分野にも妥協を必要としない生物物理学者であることに大きな満足感を覚えています。

祈りの答えを受ける

わたしにとってキリストへの信仰に至る旅路は科学実験のようにはいきませんでした。ドイツでルーテル派の信者として成長したので,キリストの教えが大切なものであると理解していましたが,復活が起きたことと,イエス・キリストが興味深い人物以上の存在として考えることはできませんでした。また,「あなたの敵を愛しなさい」という高い理想や山上の垂訓で麗しく教えられているその他の教えと,自分の日常生活で実行できることとの間に大きなギャップを感じていました。このため,倫理観に基づいた現実的な理想像に関心を寄せていました。

初めてモルモンの宣教師に会ったのはそれから15年後のことでした。イリノイ州中部の大学で博士課程に進んでいたわたしは,特に宗教を探し求めていたわけではありませんでした。研究室の同僚や親しい友人たちが興味本位から宣教師と会う約束をしていました。どのような話になるのか不安だった彼らはわたしにも出席を求めてきました(結局,全員がモルモンについて聞くことになりました。それは全員にとって初めての体験でした)。わたしはその集会で,キリストの神性と死後の生活についての疑問を宣教師にぶつけました。宣教師はこれらの概念について教えるのでも,信じるべきだと言うのでもなく,祈りによってそれらが真実であることを経験してみるようにと言いました。聖句をいくつか引用して,もし神に尋ねるなら,神はわたしの祈りに答えて,キリストがまことに復活されたことを確認してくださると約束しました。要するに彼らはわたしに実験するよう求めたのです。もし一定の条件を満たすならば,一定の結果が生じるという実験です。そこでわたしは祈りました。1週間後に宣教師と会ったとき,何も起きなかったと報告しました。結局,神は答えてくださらないのだと思いました。再び聖文を一緒に読み,約束が成就されるための具体的な前提条件について宣教師と話し合いました。その中に「ただ,疑わないで,信仰をもって願い求めなさい」という条件がありました。この聖句から,たとえわたしが望んでいるような答えでなくとも,答えを受けると信じて祈ることだと理解しました。それは自分の決める条件でなく,神の条件に従い,祈りによって神のもとへ行くという意味でもありました。そこで再び祈りました。そしてその週に,生涯で初めて,イエス・キリストがまことに死人の中からよみがえり,生きておられることを信じることができました。当時,そうだとはっきり知ったわけではありませんでしたが,疑いや心の動揺を覚えることなく,信じることができました。そのようなことは不可能だと確信していた以前のわたしには考えられないことでした。

この経験によって未知の部屋に通じる扉が開かれました。この扉が開かれるとは思っていませんでしたが,実際に開かれたとき,生来の好奇心に後押しされて,部屋の中を詳しく調べ始めたのです。祈り,そして祈りの答えを受けるという啓示の基本的な手順が証の源となっています。その霊的な経験は現実であり,一部の知覚経験と同じように再現できます。活発な教会員は皆,過去にそのような経験をしていると思います。祈りの答えとして啓示を受けた経験です。わたしを含め多くの人は,そのような経験をきっかけとしてその後多くの啓示を受けています。

教会の奉仕の業を考察する

信仰の中心に個人の啓示が据えられると,特定の質問に対してある人はある答えを受け,ほかの人は別の矛盾する答えを受けるのではないかと考えるかもしれません。答えを与える神がおられず,答えを受ける確かな方法がないとしたら,教義,社会,現実的な問題について見解の相違が生じ,やがて,よって立つべき信仰の共通の基礎が失われていきます。そうではなく,様々な人がそれぞれ同じ答えを見いだすとしたら,それは信仰を築き,強めることになります。わたしはこれを経験しました。人々に仕えるために求めて与えられる啓示は最も確かなものです。

長年にわたって,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員たちの奉仕の業を偏見なく観察し,該当する評議会に参加し,訪問を行ってきた人は,教会で働く人々に導きと指示を与える神の力が存在することに気づいています。わたしは,奉仕の業に関連した疑問について祈ったときに同じ答えを受けた人々,当初は自分の常識で考えられなかったような答えを受け,後になってそれが正しいことを知った人々の経験を目にしてきました。この業に携わっている人々の生活に力や熱意が増し加えられるのを見てきたのです。

人々の必要について考えるために会員たちが集まるとき,すばらしいことが起きます。さらに,教会の評議会ではそこに集まった人々の善意や能力を超える力がしばしば現れます。どこにでも見られることですが,教会員の間にも強く,対立する個性が存在します。けれども,評議会で話し合い祈った結果として見いだし,承認された結論は個人の見解に取って代わる答えであり,なすべきことについて霊感に基づいた理解となると思います。強い個性やときには自我を門口に残して出席し,妥協するのではなく啓発によって到達する一致は奇跡と言うほかありません。わたしはそのような小さな奇跡をたくさん目にする特権を得てきました。

山上の垂訓の理想からはまだ程遠い所にいますが,そこに到達する道があることに今,多少の希望を抱いています。自分の家族に対してあるいは教会で奉仕の業に携わっている最もすばらしい瞬間に,「恵みに恵み」を加えられて成長すること,キリストの純粋な愛に満たされることの意味を少し理解できます。憐れみや忍耐,理解を示され,あるいはわたしを助けてくれた人との結びつきを感じることが対人関係の改善につながることがあります。このような気持ちはほかの啓示と同じ源からもたされるものであって,内からわき出るものではありません。

最後に,それは最も大切なことですが,そのような行動と祈りによって奉仕を受けた人々の生活にきわめて明らかな,時には非常に実質的で具体的な祝福がもたらされることを証します。

神との交わり

アーバイン校の物理学部は中性微子の研究でその名を広く知られています。それは,調査研究をここで行ったフレデリック・ライネスから受け継がれているものです。中性微子は物理の法則から存在を推定されていた素粒子です。しかし,粒子の存在を推定することはそれを実験によって観察するほどの説得力がありません。フレデリック・ライネスは初めて素粒子の観察に成功したことによりノーベル賞を受賞しました。今日,ほかの素粒子を観察するために当時の技術,財政,人員をはるかにしのぐ規模での努力が重ねられています。あらゆる実験観察の鍵は,問題となる粒子の相互作用にあり,それに基づいて実験装置を組み立てます。粒子に作用を及ぼすために努力を傾けているとき,わたしは,推定できる範囲での神の存在に満足してしまって,神と交わるために少なくとも同じだけの努力をしていないのではないかと考えたのです。

わたしは聖書とモルモン書の神,父なる神とイエス・キリストを信じており,神はわたしたちと個人的に交わられることを信じています。わたしはこれらの交わりをとおして神を知っています。率直に言って,現在のわたしの生活とはほとんどつながりのない歴史的事実から推定して,その範囲で神の存在に気づくことはできたと思います。

信仰と科学

神は人と交わり,人に介入し,感情,感覚,体を持っておられると信じるとすれば,宇宙が独立して存在し,他に依存していないと唱えている科学の法則とどう折り合いをつけたらよいのでしょうか。しかし,科学者はどのような実験を行っても神を見いだすことはできません。

おそらくほとんどの教会員は,自分たちの知識が不完全であって,この一見矛盾することを積極的に解決しようとするのでなく,いずれ解決されるまで待つ姿勢をとっていると思います。自分の知識の程度を正直に評価する謙遜さを持ち,過去から引き継がれてきた問題を処理する方法を理解し,自分が答えを出す疑問の本質を理解することも助けになります。

わたしは毎日使っている科学的手法によって,動物の感覚能力は物理的限界まで使われていること,進化は起きていて,生物の世界を理解する鍵であること,わたしたちの世界は何百万,何億年を経ていることを知りました。現時点でこれらを真理として受け入れないとすれば,それは科学的手法を捨てることになります。わたしはそうするつもりはありません。なぜなら,この手法は信頼できるものであり,また論理,厳密な観察,あるいは考え抜かれた実験手法などの優れた基本原則に基づいていることを知っているからです。

同じように,霊的な手法があって,わたしはそれによって神がわたしたちの世界を創造されたこと,わたしたちを愛し,家族とわたしを個人的に助けておられることを知りました。以上の手法を説明しようとしたとき,わたしはこの手法もまた信頼できるものであり,また,再現性,論理と経験が霊的感覚との間に整合性を持ち,自分や他の人々の生活に見られる結果から,優れた基本原則に基づいていることに気づきました。

これらの真理が最終的にどのように一つとなるのか,あるいはより高度な真理によって押しやられるのかを見分けるだけの知的能力をわたしは持ち合わせていないため,これらのいずれも重要な手法を短絡的に結論づけることは賢明ではありません。科学的手法と霊的手法に従うとき,わたしたちは現時点での理解を超える究極の真理に導かれることを心から信じています。そこへ到達できないのはいずれかの手法を放棄してしまうからです。つまり科学による追求をやめてしまうか,霊感の追求をやめてしまうのです。そうすると,生活に豊かさを与えてくれる多くの基本的要素を失うことになります。

わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会に加わったことにより,非常に豊かな経験を得たことを証します。さらに大切なことは,様々な面でわたしを安全地帯から出て,ほかの方法では得られなかった経験をとおして喜びと力,平安を得るだけでなく,ある程度の知恵を得る助けになってきたことです。神は生きておられます。神はわたしたちが神のみもとへ帰るまでこの地上での生活の導きとなる福音を与えてくださいました。神を知り,福音に従うことによってどこへ導かれるかを知ることはどれほどの努力にも代えがたいものです。

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トーステン・リッツはカリフォルニア大学アーバイン校の物理学,天文学準教授の職にある。リッツ準教授はドイツのフランクフルト大学JWゲーテ校で物理学を学び,イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で修士課程を終え,2001年にドイツのウルム大学で物理学博士号を取得した。2003年4月からカリフォルニア大学アーバイン校の教員となった。主な研究は生物物理学であり,動物の磁気感覚に関する研究では国内外で評価を受けている。 Royal Institute of Navigation(イギリス),Institute of Physics(イギリス),Alfred P. Sloan Foundation, Cottrell Scholar of the Research Cooperationにおいて特別研究員,さらにカリフォルニア大学アーバイン校の特別準教授に指名されている。

リッツ兄弟は1997年にイリノイ州アーバナで末日聖徒イエス・キリスト教会に加入し,同地で未来の妻となるブルークと出会った。現在,二人の子供とともにカリフォルニア州アーバインに住んでいる。リッツ兄弟は青少年の指導者を務め,教会内で教師,指導者として働き,教会広報,高等評議員を歴任し,現在はビショップならびにカリフォルニア大学アーバイン校Interfaith Foundation(異教徒財団)の理事を務めている。

2011年9月に寄稿

Thorsten Ritz

As I reflect on what I can add as a natural scientist to the many testimonies that have already been given, I think it useful to discuss not only of what my testimony consists but especially how I received it. In many ways, my faith is based on a process that has worked over and over in my life rather than on any one particular fact or set of facts that I have come to accept as truth. I testify that it is possible to receive inspiration and revelation from God and to do so continually. It is my firm belief that this process will work for all who wish to find out. Being a scientist who works in both the physical and biological sciences, I also affirm that I am entirely comfortable with being a practicing, believing Mormon and a biophysicist without feeling the need to compromise on either side.

Prayers with answers

For me, the journey towards faith in Christ started not unlike a scientific experiment. When I grew up as a Lutheran in Germany, I did appreciate the teachings of Christ, but I simply could not begin to imagine that the resurrection happened, that Jesus Christ was anything more than an interesting man. I also felt that there was a great disconnect between the high ideal of “love your enemy” and other teachings beautifully presented in the Sermon on the Mount and what I might be able to live day-to-day. So, I turned to more down-to-earth role models as ethics guides.

When I met the Mormon missionaries for the first time fifteen years later, as a Ph.D. student in central Illinois, I am fairly sure I was not looking for a faith. My office-mate and dear friend had set up a meeting with them out of curiosity and, not being quite sure what to expect, asked me whether I could be a chaperone (after all, we have all heard things about Mormons, and this was the first meeting with them for either of us). At that meeting, I told the missionaries about my misgivings about the divinity of Christ and life after death. Rather than teaching about the importance of these concepts or telling me I had to believe them, the missionaries asked me to experience that they are true by praying about them. They cited some scriptural passages, and promised me that if I would ask God, he would answer my prayer and confirm to me that Christ was indeed resurrected. In short, they prescribed an experiment: If I was to meet certain conditions, certain results would happen. So I prayed, and when I met the missionaries again a week later, I reported that nothing had happened. It appeared that God did not answer after all. The missionaries read scriptures with me again and we discussed some of the specific pre-conditions required for the promise of an answer to be fulfilled, among them to “ask in faith, nothing wavering.” I have come to understand this passage as meaning to pray with an expectation of an answer, even if the answer may not be what I am looking for. It also means to come to God in prayer on his terms, not ours. I repeated the prayers and in the following week, for the first time in my life, I could believe that Jesus Christ indeed rose from the dead and is alive. I did not know for sure that this was the case at that time, but I could believe it without doubts or emotional turmoil, a huge difference to my previous certainty of it being impossible.

This experience was like the opening of a door into an unknown room. I had not expected this door to open, but now that it was open, my inborn curiosity nudged me on to explore the room behind it further. The fundamental revelatory process of praying and receiving answers to prayers is the primary source of my testimony. I find that such revelatory experiences are just as real and empirically reproducible as are some sensory experiences. I do not know a single practicing member of the church who cannot recount a similar experience in his or her life, in which they have received a revelation in response to a prayer. For me and many others, the first such experience has been followed by many more.

Observing service in the church

Since personal revelation plays such a central role in my faith, one might expect that one person can receive one answer to a particular question, and another person can receive a different, contradictory answer. Unless there is a God who provides the answers and a reliable mechanism for us to obtain the answers, disagreements about doctrinal, social, or practical issues will, over time, erode any common foundation of faith. In reverse, every time when different people come independently to find the same answer, this will build and strengthen faith. It is my experience that this happens and that revelation is most reliable when it is sought in the context of trying to best serve others.

I maintain that if it were possible for a person to neutrally observe the service to one another in the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints over a sufficient period, to participate in the relevant councils and visits, this person would be led to the conclusion that there is a divine influence guiding and directing those that work in the church. I witnessed many experiences where different persons received the same answer when praying about a question relevant to service or where they were led to an answer that initially did not appeal to common sense, but later turned out to be right. I have seen the extra energy and enthusiasm that enters into the lives of people engaged in this work.

Good things happen whenever people meet to think of the needs of others, but in the councils of the church, there is often an influence beyond the good will and ability of the people in the room. There are as strong and conflicting personalities among the members of the church as I have seen anywhere (after all, Harry Reid and Glenn Beck might sit on a church council together). Nevertheless, the solution that is found and approved after reasoning and prayer in a church council to me has always felt like an answer that supersedes personal viewpoints, an inspired understanding of what needs to be done. To see that strong personalities and, sometimes, egos can regularly be left at the door and to see consent be formed by enlightenment and not by compromise is nothing short of miraculous. I have been privileged to witness many such small miracles.

While I am still far away from the ideals of the Sermon on the Mount, I have now some hope that there is a path to them. In my best moments, when engaged in service to my family or within the church, I get glimpses of understanding of what it means to grow from “grace to grace” or to be filled with the pure love of Christ. I have seen moments where I was given compassion, patience, understanding, or just a feeling of being connected to a person that helped me approach them better. I know that these feelings were gifted from the same source as other revelations and were not simply coming from within myself.

Finally, and most importantly, I witness that I have seen the very real, and sometimes very practical and tangible, blessings in the lives of people who were served through such actions or prayers.

An interacting God

Among scientists in the physical sciences, it is not uncommon to find appreciation for the beautiful construction of our universe and to assume some form of intelligence in its creation. Albert Einstein is said to have expressed this sentiment as follows: “What I see in nature is a magnificent structure that must fill a thinking person with a feeling of humility. This is a genuinely religious feeling that has nothing to do with mysticism.” In many cases, when natural scientists believe in the existence of some creative spiritual force, they think of a deist God that established the laws of physics and now lets the universe run its course. For me, belief in such a God is a rather feeble approximation of the real God and suggests that we may not have tried hard enough to interact with him.

At my Physics department in Irvine, neutrino research is a strong point. This is in large part due to the legacy of Frederick Reines, who worked and researched here. Neutrinos are elementary particles whose existence had been inferred from the laws of physics. However, to infer the existence of a particle is much less satisfying than to observe it experimentally, and Frederick Reines was awarded the Nobel Prize for being the first to do the latter. Today, we expend enormous efforts in technology, finance, and manpower in trying to observe other elementary particles. At the heart of the experimental observation is, in all cases, the interaction of the particle in question with the experimental setup. Seeing the energy we spend in trying to interact with particles, I find it quizzical that we should be satisfied with a God whose existence we can only infer, rather than expending at least equal efforts in trying to interact with him.

I believe in the God of the Bible and the Book of Mormon, in God the Father and Jesus Christ, and I believe that he interacts with us personally. I know him through these interactions and, quite frankly, I would find a God whose existence could only be inferred at best of interest for historical reasons, but largely irrelevant for my life here and now.

Faith and science

If one believes in an interacting, intervening, personal God, how can this be reconciled with the scientific laws that seem to suggest a rather independent universe? After all, scientists have not found God in any experiment.

Perhaps most of all, this requires a willingness not to actively resolve seeming contradictions while we have imperfect knowledge, but to allow them to be resolved in due course. Humility in assessing our true state of knowledge, an appreciation of the various processes with their inherent challenges, and an understanding of the nature of the questions they answer also help.

By the scientific process that I apply daily, I learned that sensory capabilities of animals are operating close to physical limits, that evolution occurs and is a key element in understanding the biological world, that our world is many million years old. At this point in time, to not accept these statements as truth would require me to dispense with the scientific process. I do not intend to do so, since I’ve found this process to be sound and based on good fundamental principles, such as reason, keen observation, or thoughtful experimental design.

Likewise there is a spiritual process through which I learned that God created our world, that He loves us, that He supports my family and me in a personal way. I have attempted to describe some elements of this process above and I have found this process to also be sound and based on good fundamental principles, such as reproducibility, matching reason and experience with inspiration, and observing the results in my life and the lives of others.

Just because I do not have the intellectual ability to see how both of these truths will ultimately resolve into one or be superseded by a higher truth does not make it right for me to cut short either of these important processes. I have full trust that as we follow the scientific process and the spiritual process, we will be led to one ultimate truth that is far beyond what we can comprehend now. The only thing that can prevent us from getting there is to stop following either process: either stop doing science, or stop seeking for spiritual inspiration. Doing so would deprive us of many essential and enriching parts of life.

I testify that my joining the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints has been a tremendously enriching experience. More importantly, it has helped me to grow by moving me out of my comfort zone in many ways and added joy, energy, peace, and perhaps a certain measure of wisdom through experiences I would have missed in my life otherwise. God lives and has given us the gospel to guide us during our existence here on earth before we return to him. It is worth every effort to come to know him and to find out where we will be led by following his gospel.

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Thorsten Ritz is an Associate Professor of Physics and Astronomy at the University of California, Irvine. He studied Physics at the JW Goethe University in Frankfurt, Germany, and went to graduate school at the University of Illinois at Urbana-Champaign and the University of Ulm, in Germany, earning a Ph.D. in Physics in 2001. He joined the faculty of UC Irvine in April 2003. His main research focus is in biophysics, in particular the study of magnetic sensing in animals, for which he has received national and international recognition. He was named Fellow of the Royal Institute of Navigation (UK), Fellow of the Institute of Physics (UK), Fellow of the Alfred P. Sloan Foundation, Cottrell Scholar of the Research Cooperation, and Distinguished Assistant Professor for Research at UC Irvine.

Brother Ritz joined the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints in 1997, in Urbana, Illinois, where he met his future wife, Brooke. They and their two children live in Irvine, CA. He has worked with the youth, taught and administered in congregations, and served in Church Public Affairs and as High Councilor. Currently, he serves as Bishop and on the Board of the UC Irvine Interfaith Foundation.

Posted September 2011